宇田

そのとき考えていること

{!その時考えていること}-[2024-03-16~2024-03-28]

2024年3月16日

仮説


異性愛の対象条件〉

考えていて、諦めずに、どんな状況でも止揚し続けることを肯定されること(もっと言えば「それが良い」と意思表示されること)


〈友愛の対象条件〉

上記の肯定を私が対象に対して行うこと

 

2024年3月16日

AsIs-ToBeに則って実現(メジャーアップデート)された理想のシステムが、実際に運用されることでまた新たなAsIsとして現状像が発現する。(マイナーアップデート)

繰り返される構築と運用の過程で、真に目指すべく指針がブレてしまわないように、あるいは意図と根拠を持って変容させる際の方法論というのは、ある種のシステムという生き物の代謝であり、人の人生と似ているとすら思える。

 

2024年3月19日

アクセスしないと見ないBIより、強制的に視界にデータを表示させるプッシュ通知の方が怠惰人間には効く気がしてきていて、となると「プッシュ通知の表記制限内での必要最低限かつ効果的なデータ変数の定義付け」が必要になってくる(ので考えている)

 

2024年3月19日

「死ぬまで生き続けるんだなあ」と実感できるようになってきたけど、実現への過程やステータスとかは全くイメージできていない

 

2024年3月22日

いい歳して恩赦と説法を受けてしまったので、どうやって苦しむか・頑張るか・解釈するかのハンドルが他人に握られている、かなり苦しい

 

2024年3月22日

俺は絶対に逃げないけど、痛いものはちゃんと痛くて苦しい

 

2024年3月22日

都度母との意見のずれはあったが、ここまで顕著に溝が広がったのは今回が初めてである。母は理想が高い。厳密にいうと「田舎神話を真っ当に突き進み、優良優等生として成果を残してきた十数年前の”私“」が母が私に強いるロールモデルである。

残念なことに精神疾患や就活浪人、転職、そして困窮といったここ数年の私のライフイベントは私にとっては腹落ちできるものになったうえで、ようやく「やっていくしかない」と思え、少しずつ暮らしを人生を前に進めてきたのである。

そういった自分なりの苦しみ方、努力の仕方、解釈の仕方を価値観として設けた。ダメなりに生きていくために。

進学で上京してようやくそれから逃れられると感じていたのが私の本心であり、その地続きに今の自分がある。

ここ数年自分を守ってきた「しょうがないからやるしかない」という言葉が真上から押し潰されて、母からの連絡が今となっては全て罵声に聞こえるようになってしまった。これは罵声以上に、自分と母のずれを「仕方なくない!!立派に生きなさい!!!」という命令ないし教育として受け入れ、支配下に降るということである。その主張を受けるたびに「じゃあ俺はどうやって生きればいいですか」「失敗作なので死なせてもらっていいですか」と大きな溝の底で、ただ失っただけのそれではない、「親との離別」「おしまいである」

 

2024年3月23日

ダメであることを許してくれる一人暮らし、東京という環境は自分にとって大層居心地がよかったのである。

 

2024年3月23日

ダメな自分で生きていくことに向き合って、人から見れば泥水を啜るような暮らしでも、責任を持って少しずつ前に進めてきたはずである。

 

2024年3月26日 

自分に対する期待や希望、頑張る理由が自分の中にはもう見つからない気がしていて、そのうえ極端なことに「自分はどうなっても構わない」という気持ちがあるため、ゆるやかな死に向かってズルズルと退廃してしまっている。

 

2024年3月26日

なんと皮肉なことか、死なないために必死だった日々の方が活気に溢れ、些細なことでさえ幸せに感じたものである。

 

2024年3月28日 

声が上がる限りは議論の余地があり、悩み考える限りは止揚の余地がある。いつか機会は失われてしまうが、今、ここに余地がある。