宇田

そのとき考えていること

220325

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 買い被られることが多くて困惑する。曰く、土台造り?プラットフォーム造り?みたいなことに長けているらしい。「お前が考える事業なら???万出せる」と言われた。おれを事業家にでもさせるつもりなのか。仮に事業を作ったとして、それを自分のものにしたいという欲は全くないし、なんならアイデアだけ提供してあとは好きにしてもらったほうが気が楽だとは思う。もっというなら、アイデアの是非についてワイワイ論じ合うことそのものにしか価値は感じない。しかも、おれは骨組みが得意なだけであって建築法を守れるほど生真面目な人間ではない。
 しかし、共生の可能態を広げて、共生の質を最大化したいみたいなところは確かにある。煙草を一本譲り合える相手が増えたら嬉しい、珈琲をしばきながらいろんな話をしたい、他でもないあなたともっと仲良くなりたい、誰のことなんだろう。
 共生の範囲は「心地よさの共有可能な幅」を指していて、自分にとっては「理解に対する努力を怠らず、どうしようもなさを愛せること」かもしれない。言ってしまえば、心地よさを共有できない人とは関係を好んで構築しないかもしれない。1年後には考えが変わっているかもしれないけど、多分死ぬまで考えて模索し続けるので問題ない。
 


追記


 赤羽はオイカワコーヒーにお邪魔した。白髪を束ねた無骨なおじさんが迎え入れてくれた。声は風貌の割に高い。というか若さを感じさせる勢いがある。マンデリンの豆を買ったので、ついでにおじさんにもマンデリンでドリップを一杯いただいた。どうせあとで家で淹れるなら、プロの技術で同じものを飲んでみたいと思った。美味かった。どうやらおれは苦味と雑味の区別ができていなかったらしい。どうりで「珈琲味の原油」と言われるわけである。おじさんは苦笑いもせずに理由と改善策を教えてくれた。
 おすすめの豆やら淹れ方を伺いながらドリップコーヒーをしばいていると、珈琲の経済圏と文化の話やら、味覚と絶対性の話になった。こういう話ができるおじさんが一番信頼できる。
 ゲイシャという豆の希少価値がかなり高いらしく、どうやらカシミヤみたいな扱いを受けているらしい。希少価値と美味しさに因果はないと断りを入れた上で、なんとサービスで一杯奢ってもらった。「こんなにレアな豆なのに、うまく淹れる人もいない。これがホントのゲイシャだ。」みたいなことを仰っていたが、マジでホンモノだった。「これが珈琲なんですか!?」と言うとニチャニチャ顔で喜んでまた語り始めた。こっちまで嬉しい。味に対する解像度を高めてくれたのは他でもないおじさんのオタク語りである。豆を買いに行ったというよりは知識と体験を売ってもらった感覚の方が強い。ありがとう。
 なんとなく「一緒に最高をやろうや」的な姿勢に心打たれるタチっぽいことを自覚した。2018年秋のLOUNGE NEOで開かれた「家だけにyeah」の地下一階、in the blue shirtのライブもそうだった。ふとバーカンついでに立ち寄ったフロアで、知らないはずの音楽を聴きながら、あり得ないくらい興奮した記憶がある。見ず知らずの誰かを個人の知的好奇心の文脈に巻き込んで、ついでにそいつにとっての至極の瞬間になる。神業かもしれない。

 一緒に頭振ろうや!みたいなものの楽しさは自分にとっては他は変え難い。土台を作るのがうまいのではなく、自分が楽しい空間を人に共有する技術みたいなものは確かに存在するな、と思う。もし友人による自分の評価がその類のものを指しているのであれば、おれもそれをやってみたいかもしれない。