宇田

そのとき考えていること

2024-04-03~2024-04-21

2024年4月3日

発話とは応答要求であり、発話の受動体は承認・否認・無視の中から応答を行う。

私、あなたは、個人としての感情-思考-価値観に加えて、二者以上の主体たちとしての共謀的な価値観も持ち合わせており、これはドラマトゥルギー役割期待というように呼ばれ、「常識」や「当たり前」、「共通認識」という形のシステムとして発現する。

発話・応答の対象においては、「1:1(わたしから見たあなたへの言及)」や「2:n(わたしたちから見たなにかへの言及)」、「1:n:1(わたしから見たなにかに対するあなたの言及)」など、主体と客体は変わる代わりポジションを変え、その都度、対象に対する応答、つまり承認・否認・無視が行われ、また、その応答に対する応答がなされる。この繰り返しの先にあるものが、二者間以上での価値合意の省略であり、”言わずとも元々そうである“「常識」「当たり前」「共通認識」を創出したり、より強固なものにする。

承認にしても常識にしても、選択(や選択のかたまり)として収めて捉えることができる。「選択する」という行為は「選択しないものを選択する」ことであり、つまり承認の際には、承認されないものの全てを定義づけていることがしばしばである。

もし、二者間以上でのコミュニケーション(自分に対する相手の認識、相手に対する自分の認識、自分たちからみた第三者や社会への認識、自分から見た第三者や社会への認識に対する相手の認識.etc)に違和感やギャップ、不満がある場合は、自分にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)と、他者や社会通念にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)のズレを認知する必要があり、また、承認しないこと=否認・無視することによる加害性を自覚することで、対話の可能性は維持される。これは対話が一回きりのものではないのと同様に、持続的に認知・自覚(≒自己言及)が行われることで、無自覚な暴力を取り除き続けること、ないし取り除かんとする意思の持続が可能である。

 


2024年4月8日

「常識」や「当たり前」というのは理解可能性を孕んでおり、それが見当違いであることもしばしばであり、そういった意味では暴力性を持っているとも言える。これは、他者を主体=近しい存在として扱い対話の必要性を排他する機能を持つ。無論、その方が楽であり、世界中の人々に対して一から十まで対話し合い切るなど不可能だからである。一方で、この事実は逆説的にこう捉えることもできる。どんなに親しい他者であっても客体=理解できないものとして“理解”することは可能である、と。社会的なレッテル、自身の主体的な価値判断の先に対話可能性を用意しておくことで、どんなに理解できない人でも、どんなに理解できる人であっても、「主体=自身とは違う場所にある他者は客体=理解しきれないものであるために、持続的な対話、その都度の認識の止揚こそが理解可能性を産み続ける」ということである。

 


2024年4月13日

幸せになる権利も条件も、ようやく持ち合わせたはずなのである。

 


240415追記:

自分のものですらない誰かの価値基準で幸せを判断している。自分の仮説で対話をし、応答を求めないのならそれは自分に対して暴力的である。

 

 

 

2024年4月13日

大体のことはおもんなくなっていく。わかってしまえば考えることもなく、頭を抱えることもなく、報酬(成果)どころか周辺一帯の選択がまるっと省略され、二度とわからない状態にはもどれない。

 


2024年4月13日

応答がないと知ってさえいれば、初めから発話をしようだなんて思いもしないだろうということである。

 


2024年4月13日

今日この日を不幸に思えないことが、明日以降のあらゆる動機を断ち切ってしまい、心脈すら動かせなくなってしまうのではないかと恐怖している。

 


2024年4月13日

散々の怠惰を許して、諦観したからこそ、今日まで生きてしまえていて、それこそが明日以降の日々を良くし続けるための不満も不幸を抑圧している。

(不満がない場所には本当に改善はないのか?改善のない日々に生きる意味を感じ取ることはできるのか?)

 


2024年4月13日

応答がないというのは否定されることよりも耐え難い。否定があるうちは改善が見込める。

評価も承認も否定もない中で、人は本当に一人で満足に生きていけるのだろうか。​(唯一満足に死ぬことだけは可能であるように思える)

 


2024年4月14日

社会人としてそれとなく生きてしまうことができるがゆえに、規範や価値観の再構築の機会が訪れず、暮らしや人生に対する動機を見失う人が多いように思う

 


2024年4月14日

大前提に、不満がなければ欲求の産まれようがなく、欲求がなければ動機の産まれようがなく、動機がなければ努力も改善も起きえない。

 


2024年4月14日

精神疾患になり、最低限生き延びるために「頑張らなくていい」と家事や人間関係を蔑ろにしてきた。結果として注力した仕事はうまくいって精神疾患も解消してきたが、「頑張らなくていい」と手放した常識や観念はそのままで、むしろこのままでもうまくいっていると思っているのか乱れた食生活、散らかった部屋などに不満を抱くのが難しく、改善してよりよく生きていくための動機が持てていない。

 


2024年4月14日

自分を肯定するとしたら、赤字でいいんだよ、健康診断引っ掛かっていてもいいんだよ、と言い聞かせることになる。適切な評価の結果が有罪なのであって、開き直ってポジティブに「ここから頑張っていこう!」と思えてしまうなら刑務所は必要ない。罪の意識が大きすぎる。

 


2024年4月15日

生きる理由だとか自己肯定などと考えるからややこしいのであって、単に価値基準の話ではないか。

 


2024年4月15日

セルフケアが脚光を浴びる時代である。弱さを自覚したときにセルフケアは光る。距離を取ること、諦めること、勢いを落とすこと。生きているだけで偉いという言葉さえ露見するように、停止さえしなければ減速は大いに歓迎されている。

一方で、人と歩むスピードが変わって産まれた距離、価値観の差、善悪の判断の尺度はある種取り返しのつかないものである。脱構築的でパーソナライズドな心地よさは、私の、彼だけのものであり、第三者のレビューなしには孤立を免れることはない。

であればパーソナルな部分が似通ったコミュニティで対話を行い、承認を得ることが重要に思える。しかし、セルフケア≒減速が必要になった経緯も、必要な程度も人によって異なる。個々人がそれぞれの必要に応じてそれぞれの価値観を社会一般から自ら遠ざけ個別最適しているという事実だけが色眼鏡のない捉え方と考えられる。

必要なのは減速が必要な状態である(であった)こと、そして、「あなた」のセルフケアを肯定するという同意形成ではないだろうか。かくして、孤立した価値観は承認を得て、コミュニティの一員としての存在を認められる。それはすなわち、自分の目線だけでは判断のつかない価値観を認め合うことであり、存在≒生存を認め合うということである。

社会は消費を促し、雇用を産み、経済を成り立たせる。(もちろん社会に適合できない人が大勢いることは認識した上で)社会で労働活動を営みながらも、その母体の大半とは価値観に距離があり、一方で、労働資本として社会への適合が叶ったがゆえに頭を抱える必要がないという独特の悩みを持つ者は一定数存在する。

弱さをもった個体として悩み考えセルフケアをする。一方で、労働資本として老先数十年を歩き続けるほどの動機は見出せない。大半の労働資本がマジョリティとして価値観を持つがゆえに、第三者からのレビューが行われない。そういった人が、社会には確かに存在するのではないか。(わたし以外にも)

 


2024年4月15日

外に出るという判断は間違っていなかった

 


2024年4月16日

持続可能で自覚可能な思考、価値観、感情を回していきたい。

 


2024年4月20日

ストラテラの減薬を開始し変化を感じたので記録。ひとつの物事に対する集中力が失われている。意識が散漫に飽和していく感覚があり、本を読んでいても意識の的が定まらない。​現にこの文章を打つのに結構な時間がかかっている。

一方で、散漫になんとなく家事ができてしまったり、精神的な負荷が高い思考が長続きせず、​結果的にストレスが軽減されているような気もする。

 


2024年4月20日

「ここまできてまだお前は他人のことが怖いんですか」とセルフツッコミをしている

応答がないことが一番怖いと知っているのに

 


2024年4月21日

自分の行く末を看取りたいがために生きており、自分のためなら死ねると考えれば、今感じている空虚は相手にすらならないかもしれない。

 


2024年4月21日

〈減薬を開始した所感〉概ねそんなもんだろうと思ってはいたものの、向精神薬に支えられながら生きた時間の分だけ、感覚も欲も思考も価値観も自分の外部にアウトソーシングしていたとはっきりわかる。一番わかりやすいのは眠剤で、かれこれ3年ほど飲んで過ごしたために、「どうやって眠っていたのか」を思い出せていない。ADHDの薬なら意識の使い方、不安障害の薬なら深呼吸の仕方さえも薬に教えてもらっていたようなものである。もう必要ないと言うからには、また一から身体の感覚を、心の感覚を養っていくほかない。