宇田

そのとき考えていること

2024-04-03~2024-04-21

2024年4月3日

発話とは応答要求であり、発話の受動体は承認・否認・無視の中から応答を行う。

私、あなたは、個人としての感情-思考-価値観に加えて、二者以上の主体たちとしての共謀的な価値観も持ち合わせており、これはドラマトゥルギー役割期待というように呼ばれ、「常識」や「当たり前」、「共通認識」という形のシステムとして発現する。

発話・応答の対象においては、「1:1(わたしから見たあなたへの言及)」や「2:n(わたしたちから見たなにかへの言及)」、「1:n:1(わたしから見たなにかに対するあなたの言及)」など、主体と客体は変わる代わりポジションを変え、その都度、対象に対する応答、つまり承認・否認・無視が行われ、また、その応答に対する応答がなされる。この繰り返しの先にあるものが、二者間以上での価値合意の省略であり、”言わずとも元々そうである“「常識」「当たり前」「共通認識」を創出したり、より強固なものにする。

承認にしても常識にしても、選択(や選択のかたまり)として収めて捉えることができる。「選択する」という行為は「選択しないものを選択する」ことであり、つまり承認の際には、承認されないものの全てを定義づけていることがしばしばである。

もし、二者間以上でのコミュニケーション(自分に対する相手の認識、相手に対する自分の認識、自分たちからみた第三者や社会への認識、自分から見た第三者や社会への認識に対する相手の認識.etc)に違和感やギャップ、不満がある場合は、自分にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)と、他者や社会通念にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)のズレを認知する必要があり、また、承認しないこと=否認・無視することによる加害性を自覚することで、対話の可能性は維持される。これは対話が一回きりのものではないのと同様に、持続的に認知・自覚(≒自己言及)が行われることで、無自覚な暴力を取り除き続けること、ないし取り除かんとする意思の持続が可能である。

 


2024年4月8日

「常識」や「当たり前」というのは理解可能性を孕んでおり、それが見当違いであることもしばしばであり、そういった意味では暴力性を持っているとも言える。これは、他者を主体=近しい存在として扱い対話の必要性を排他する機能を持つ。無論、その方が楽であり、世界中の人々に対して一から十まで対話し合い切るなど不可能だからである。一方で、この事実は逆説的にこう捉えることもできる。どんなに親しい他者であっても客体=理解できないものとして“理解”することは可能である、と。社会的なレッテル、自身の主体的な価値判断の先に対話可能性を用意しておくことで、どんなに理解できない人でも、どんなに理解できる人であっても、「主体=自身とは違う場所にある他者は客体=理解しきれないものであるために、持続的な対話、その都度の認識の止揚こそが理解可能性を産み続ける」ということである。

 


2024年4月13日

幸せになる権利も条件も、ようやく持ち合わせたはずなのである。

 


240415追記:

自分のものですらない誰かの価値基準で幸せを判断している。自分の仮説で対話をし、応答を求めないのならそれは自分に対して暴力的である。

 

 

 

2024年4月13日

大体のことはおもんなくなっていく。わかってしまえば考えることもなく、頭を抱えることもなく、報酬(成果)どころか周辺一帯の選択がまるっと省略され、二度とわからない状態にはもどれない。

 


2024年4月13日

応答がないと知ってさえいれば、初めから発話をしようだなんて思いもしないだろうということである。

 


2024年4月13日

今日この日を不幸に思えないことが、明日以降のあらゆる動機を断ち切ってしまい、心脈すら動かせなくなってしまうのではないかと恐怖している。

 


2024年4月13日

散々の怠惰を許して、諦観したからこそ、今日まで生きてしまえていて、それこそが明日以降の日々を良くし続けるための不満も不幸を抑圧している。

(不満がない場所には本当に改善はないのか?改善のない日々に生きる意味を感じ取ることはできるのか?)

 


2024年4月13日

応答がないというのは否定されることよりも耐え難い。否定があるうちは改善が見込める。

評価も承認も否定もない中で、人は本当に一人で満足に生きていけるのだろうか。​(唯一満足に死ぬことだけは可能であるように思える)

 


2024年4月14日

社会人としてそれとなく生きてしまうことができるがゆえに、規範や価値観の再構築の機会が訪れず、暮らしや人生に対する動機を見失う人が多いように思う

 


2024年4月14日

大前提に、不満がなければ欲求の産まれようがなく、欲求がなければ動機の産まれようがなく、動機がなければ努力も改善も起きえない。

 


2024年4月14日

精神疾患になり、最低限生き延びるために「頑張らなくていい」と家事や人間関係を蔑ろにしてきた。結果として注力した仕事はうまくいって精神疾患も解消してきたが、「頑張らなくていい」と手放した常識や観念はそのままで、むしろこのままでもうまくいっていると思っているのか乱れた食生活、散らかった部屋などに不満を抱くのが難しく、改善してよりよく生きていくための動機が持てていない。

 


2024年4月14日

自分を肯定するとしたら、赤字でいいんだよ、健康診断引っ掛かっていてもいいんだよ、と言い聞かせることになる。適切な評価の結果が有罪なのであって、開き直ってポジティブに「ここから頑張っていこう!」と思えてしまうなら刑務所は必要ない。罪の意識が大きすぎる。

 


2024年4月15日

生きる理由だとか自己肯定などと考えるからややこしいのであって、単に価値基準の話ではないか。

 


2024年4月15日

セルフケアが脚光を浴びる時代である。弱さを自覚したときにセルフケアは光る。距離を取ること、諦めること、勢いを落とすこと。生きているだけで偉いという言葉さえ露見するように、停止さえしなければ減速は大いに歓迎されている。

一方で、人と歩むスピードが変わって産まれた距離、価値観の差、善悪の判断の尺度はある種取り返しのつかないものである。脱構築的でパーソナライズドな心地よさは、私の、彼だけのものであり、第三者のレビューなしには孤立を免れることはない。

であればパーソナルな部分が似通ったコミュニティで対話を行い、承認を得ることが重要に思える。しかし、セルフケア≒減速が必要になった経緯も、必要な程度も人によって異なる。個々人がそれぞれの必要に応じてそれぞれの価値観を社会一般から自ら遠ざけ個別最適しているという事実だけが色眼鏡のない捉え方と考えられる。

必要なのは減速が必要な状態である(であった)こと、そして、「あなた」のセルフケアを肯定するという同意形成ではないだろうか。かくして、孤立した価値観は承認を得て、コミュニティの一員としての存在を認められる。それはすなわち、自分の目線だけでは判断のつかない価値観を認め合うことであり、存在≒生存を認め合うということである。

社会は消費を促し、雇用を産み、経済を成り立たせる。(もちろん社会に適合できない人が大勢いることは認識した上で)社会で労働活動を営みながらも、その母体の大半とは価値観に距離があり、一方で、労働資本として社会への適合が叶ったがゆえに頭を抱える必要がないという独特の悩みを持つ者は一定数存在する。

弱さをもった個体として悩み考えセルフケアをする。一方で、労働資本として老先数十年を歩き続けるほどの動機は見出せない。大半の労働資本がマジョリティとして価値観を持つがゆえに、第三者からのレビューが行われない。そういった人が、社会には確かに存在するのではないか。(わたし以外にも)

 


2024年4月15日

外に出るという判断は間違っていなかった

 


2024年4月16日

持続可能で自覚可能な思考、価値観、感情を回していきたい。

 


2024年4月20日

ストラテラの減薬を開始し変化を感じたので記録。ひとつの物事に対する集中力が失われている。意識が散漫に飽和していく感覚があり、本を読んでいても意識の的が定まらない。​現にこの文章を打つのに結構な時間がかかっている。

一方で、散漫になんとなく家事ができてしまったり、精神的な負荷が高い思考が長続きせず、​結果的にストレスが軽減されているような気もする。

 


2024年4月20日

「ここまできてまだお前は他人のことが怖いんですか」とセルフツッコミをしている

応答がないことが一番怖いと知っているのに

 


2024年4月21日

自分の行く末を看取りたいがために生きており、自分のためなら死ねると考えれば、今感じている空虚は相手にすらならないかもしれない。

 


2024年4月21日

〈減薬を開始した所感〉概ねそんなもんだろうと思ってはいたものの、向精神薬に支えられながら生きた時間の分だけ、感覚も欲も思考も価値観も自分の外部にアウトソーシングしていたとはっきりわかる。一番わかりやすいのは眠剤で、かれこれ3年ほど飲んで過ごしたために、「どうやって眠っていたのか」を思い出せていない。ADHDの薬なら意識の使い方、不安障害の薬なら深呼吸の仕方さえも薬に教えてもらっていたようなものである。もう必要ないと言うからには、また一から身体の感覚を、心の感覚を養っていくほかない。

{!その時考えていること}-[2024-03-19~2024-04-13]

2024年3月19日

花粉により心身創痍。なにか打開点はないかとウォッチリストを眺めたりジムで脳汁を出してみたり、しかし、そんなところにブレイクスルーはない。唯一にして最大の打開は花粉の打開。花粉によるパフォーマンス低下を防ぐ。

 

2024年3月28日

やっていくだけである、やれればすべてが解決する話である

 

2024年4月12日

困難が解消すると「何もやることがない」と感じてしまうのはある種立派な自傷的な心象に思える。したがって、少しずつ乗り越えていくような小さな壁を暮らしに用意すべきだと考える。一方で、私が獲得した幸福の寸尺というのは「苦しくないこと」の域を出ることがなかったために、どうしようもない頭打ちのむず痒さき苛まれる。

 

2024年4月13日

「幸せになろう」という欲が薄く、低空飛行の現状を抜け出す動機がみつからない感覚がある。目に見えて良くなっていく環境とは裏腹に心がついてきていない。ダメなことの定義は明確だが、ダメである理由やダメだと心象を以て思えないと動けない。本当に苦しかった時期に「ダメでもいいんだよ」「これでもいいんだよ」と許しすぎたのではないか。

 


追記

本当に苦しかった時期は「過剰な許し」を用いて自己防衛をしていたように思う。明らかにアウトな(たとえば散財、暴食、暮らし)を許すことで苦しさを肯定してみせる。そうやって世間との距離がどんどん離れていった記憶がある。「散らかったままの部屋でもいいんだよ」「体重が増えているけど仕方がないことなんだよ」「これでいいんだよ、仕方がないんだよ」と隆々に築かれた壁は、とても大きく、これまでの思考や価値観を生々しく反映した産物で、どうやって乗り越えるべきなのか今のところ検討がついていない。

{!その時考えていること}-[2024-03-16~2024-03-28]

2024年3月16日

仮説


異性愛の対象条件〉

考えていて、諦めずに、どんな状況でも止揚し続けることを肯定されること(もっと言えば「それが良い」と意思表示されること)


〈友愛の対象条件〉

上記の肯定を私が対象に対して行うこと

 

2024年3月16日

AsIs-ToBeに則って実現(メジャーアップデート)された理想のシステムが、実際に運用されることでまた新たなAsIsとして現状像が発現する。(マイナーアップデート)

繰り返される構築と運用の過程で、真に目指すべく指針がブレてしまわないように、あるいは意図と根拠を持って変容させる際の方法論というのは、ある種のシステムという生き物の代謝であり、人の人生と似ているとすら思える。

 

2024年3月19日

アクセスしないと見ないBIより、強制的に視界にデータを表示させるプッシュ通知の方が怠惰人間には効く気がしてきていて、となると「プッシュ通知の表記制限内での必要最低限かつ効果的なデータ変数の定義付け」が必要になってくる(ので考えている)

 

2024年3月19日

「死ぬまで生き続けるんだなあ」と実感できるようになってきたけど、実現への過程やステータスとかは全くイメージできていない

 

2024年3月22日

いい歳して恩赦と説法を受けてしまったので、どうやって苦しむか・頑張るか・解釈するかのハンドルが他人に握られている、かなり苦しい

 

2024年3月22日

俺は絶対に逃げないけど、痛いものはちゃんと痛くて苦しい

 

2024年3月22日

都度母との意見のずれはあったが、ここまで顕著に溝が広がったのは今回が初めてである。母は理想が高い。厳密にいうと「田舎神話を真っ当に突き進み、優良優等生として成果を残してきた十数年前の”私“」が母が私に強いるロールモデルである。

残念なことに精神疾患や就活浪人、転職、そして困窮といったここ数年の私のライフイベントは私にとっては腹落ちできるものになったうえで、ようやく「やっていくしかない」と思え、少しずつ暮らしを人生を前に進めてきたのである。

そういった自分なりの苦しみ方、努力の仕方、解釈の仕方を価値観として設けた。ダメなりに生きていくために。

進学で上京してようやくそれから逃れられると感じていたのが私の本心であり、その地続きに今の自分がある。

ここ数年自分を守ってきた「しょうがないからやるしかない」という言葉が真上から押し潰されて、母からの連絡が今となっては全て罵声に聞こえるようになってしまった。これは罵声以上に、自分と母のずれを「仕方なくない!!立派に生きなさい!!!」という命令ないし教育として受け入れ、支配下に降るということである。その主張を受けるたびに「じゃあ俺はどうやって生きればいいですか」「失敗作なので死なせてもらっていいですか」と大きな溝の底で、ただ失っただけのそれではない、「親との離別」「おしまいである」

 

2024年3月23日

ダメであることを許してくれる一人暮らし、東京という環境は自分にとって大層居心地がよかったのである。

 

2024年3月23日

ダメな自分で生きていくことに向き合って、人から見れば泥水を啜るような暮らしでも、責任を持って少しずつ前に進めてきたはずである。

 

2024年3月26日 

自分に対する期待や希望、頑張る理由が自分の中にはもう見つからない気がしていて、そのうえ極端なことに「自分はどうなっても構わない」という気持ちがあるため、ゆるやかな死に向かってズルズルと退廃してしまっている。

 

2024年3月26日

なんと皮肉なことか、死なないために必死だった日々の方が活気に溢れ、些細なことでさえ幸せに感じたものである。

 

2024年3月28日 

声が上がる限りは議論の余地があり、悩み考える限りは止揚の余地がある。いつか機会は失われてしまうが、今、ここに余地がある。

Var-2,024/3/12

Log-0025

ただ日々が続いていくこと、持続性のある一日を組み立て続けること、ただ日々が続いていくこと

 

Log-0026

承認が親愛の条件であると自らの特性に気づきつつあるが、「そういう在り方でいいんじゃない」ではなく「そういう在り方が良い」という許しであったり、認めがより有意なように感じる。(当たり前と言えば当たり前だが)

前者の承認であっても偏屈な自分としては本当にありがたいことであるので、これが理由で「あなたに惹かれはしない」と結論づけるのも苦しく感じる。自分の価値基準に対して苦しいもなにもないだろうし、そもそも何様のつもりだと言われてしまうとぐうの音も出ないが、それは自分自身の価値基準を他人に向けるもの、世間に晒すものとして“良いもの”であると自信を持って言えないからであろうと考えている。

自己評価の低さは相変わらずのものだなと感じる一方で、それは他者からの否定を恐れるあまりの判断であると仮説を立てているところで、いっそのこと”ちゃんと否定されにいく“という過程は今の自分には必要な気もしている。

 

Log-0027

自己評価として「たくさん考えて色んな手法で試行錯誤して争い続ける」ことがかなり本質的だなと自認しつつあるけど、これって就活でも同じようなこと言ってたなあと思い少し恥ずかしい。

 

Log-0028

ただ日々の繰り返し、これを怠らないことこそがもっとも建設的で健康的な営みだと信じてやまない。一方で、この日々の繰り返しの先にあるものを考えたときに真先に思い浮かぶのは「死ぬまで今と同じように一人で生き切った自分」であり、確かに望むものであることに違いはないものの、それは本当に幸せなのだろうかと疑っているところに否定はない。

 


『マインクラフトを死ぬまでソロモードで遊ぶか、死ぬまでマルチプレイで遊ぶか、どっちか選べって言われたらどうするよって話なのよ』

 

Log-0029

日々を怠らず続けるのは当たり前、その上でどんな日々を積み重ねるかを考えて組み立てることが求められている。

 

Log-0030

生きていけるけどっていう程度に消耗戦を耐え続けるしかないのかなと考えてる

いつまで耐える?どうなったら戦いが終わる?

 

Log-0031

社会的役割も責任も価値観も、年を食った分だけ身についていって一日を無限回繰り返すことでちゃんと死ねる身分になってきている気がする。そうなると、

{どう死ぬか}=

{どんな環境でどんな一日を過ごすのか}x無限回

に焦点が当たるようになり、すると今(から死ぬまで続いていく)暮らしの消耗・摩耗を抱えたままでいいのか?と問うようになる。どうすれば摩擦が負荷が減るのか、強度が効率が上がるのかはまだいまいちピンときていないが、目下孤独だけはあまりにも摩擦を生みすぎていると感じている。

Var-2,024/3/3

Log-0011

二つの社会復帰

社会に復帰せねばならんという時点で、なにかしらの障害が原因で社会から離脱せざるをえなかったということがわかる。世間一般で言う社会復帰は休職→復職、もしくは退職→再就職のようなものを指している気がする。いわば職場復帰、さらにいわば「労働を遂行しうる素体を有する」ことであろう。

さてもう一つの社会復帰は、社交性が大きな要素となる。離脱した人は、なんらかの苦しみに対し、アウトプットとしての価値観を形成する。心療内科に通って抗不安剤を服薬するでも、以前はストレスでしょうがなかった上司や同僚、友人から距離を置くなど、文字通り元にいた社会に対して距離を​取り価値判断の再構築を狙う営みこそが離脱である。

ここで障害の寛解に至った人は、労働への社会復帰をし、元の暮らしに戻る。一方で、彼らにはもうひとつ「元の暮らし」が見えてしまう。社会との距離を取って作った価値観は、とうに社会一般常識とはかけ離れてしまっている。残念なことにこれに気づけるのは、死なないための価値観が不要になったとき=職場に復帰できたとき=寛解した時である。

いざ次のフェーズに駒を進めようとしても、たとえば社交を持ってコミュニティに属したり/会社の飲みに行ったり/交友関係を作ろうとしても、前と同じようには上手くことが!進んでくれないようにできている。なぜなら、彼が作った価値観は元いた社会(とその人員)を、加害性のある存在や不安の種として捉えてしまい、迎合することが(いつのまにか)できなくなってしまっているからだ。

Log-0012

当たり前のことであるが「ネガティブワーカー」(リスクを持って社会に出続けるもの-負けなければよい)である以上に、「ネガティブピープル」(リスクに伴う態度、習慣をもとに人格を構築した、社会との距離が全体的に遠いもの-勝つことで社会・人に迎合されうる)であり、この自覚は今の自分に必要である。

 


Log-0013

「どこまでいっても自分は自分なんだよな」というある種のポジティブな突き放しは自己の保守に有効でありうまく扱えている感覚はあるが、それはそうと自分という存在の頭打ちを感じることが多くなっているし、これから歳をとるたびに「自分はここまでできる(ここまでしかできない)」を痛感することが増えるだろうなと容易に想像できる。

 


Log-0014

他人との関わりにおいて、当人が悩んでいることに対してどう捉えているか、どう取り組もうとしているか、という観点が自分の価値基準では重要らしいことに気づく。

どう捉えるか=知性/どう取り組むか=倫理として考えることができそう。

このベクトルが近かった人に惹かれたとして、それは同族意識のようなものなのだろうか。

 


追記:

「心のつながり」を感じることが重要らしい。では、「気が合う」「信用する」の条件とは?

└心から承認する/承認される

 


Log-0015

もうちょっと自由に生きてみてもいいんだろうけど、勉強をしてるうちは絶対に答えに寄りかかることができる(「答えは出ない」という答えすら持てる)から信仰のような偏屈さが常にある__依存しているのかもしれない

 


Log-0016

絶対がありえないからこそ対話・内省・訂正が重要なのであって、その都度相対的にもっとも答えと思えるものを望み続けるべきである。

その点、絶対的な“無理”があり得ないと認めさえすれば、対話の可能性をもってすれば、わたしたちは相対的に、持続的に良く在り続けることができる(と、信じている)。

 


Log-0017

日本語で言う「嫉妬」は、実は英語ではenvyとjealousyに呼び分けられている。envyとは他人が持っているものをほしい時に生じる感情で、jealousyが自分が持っているものを取られる時に生じる感情のことを指す。

つまり、隣の芝生が青いのを羨むのはenvyで、旦那が泥棒猫にさらわれて許せないのがjealousyである。

 


Log-0018

「不幸になっても大丈夫だよ〜〜〜」ってなるまで人と親密になりたくない気さえするが、そんな日は死ぬまでこない気もしている

 


Log-0019

承認-許し-心のつながり-好意

 

承認-そういう在り方もあるではなく、そういう在り方が良いという許し?認め?


そういう在り方-自分のことを許さず、一方で苦しい現実にもがきながら良くあろうとする姿勢を承認してほしい、肯定してほしい?

 


Log-0020

自己否定をするのは他人からの否定を避けるため(?)

根本にあるのは認められたい、許されたいだけなのでは

Var-2,024/2/18

Log-0000

私用システムは工数も規模も気にせず好きなだけ改修を続けられるし、動かした分だけ自分にユーザーとしての不満が溜まっていくから要件に困ることもない。そのくせ、改修し続けるたびには自分の管理形態が良くなっていくのだから本当に素晴らしい。

 

Log-0001

自分のための反省をするたびに社会が遠くなっていくので一人暮らしのやりすぎは良くない気がしてきた。

Log-0002

関係性というシステム、許すことと許されることの相互作用だということに腹落ちするのに時間をかけすぎてしまった

 

Log-0003

トラウマティックな出来事は人に静止を促し、のちに内省を促す。同じ過ちを繰り返さないためである。内省は価値観の形成に大きく助力し、そして、多くの内省を元に出来上がった価値観は、トラウマティックな出来事が起こった場所、すなわち“社会”との距離を取るように形作られる。

多くの場合、このような内省は逃避の肯定がその根底であり、己による己のための未来の己の行動指針となる。社会との摩擦で焼けた皮膚を自ら変容させること、摩擦を生んだ場所の異様性を否定することで、未来の摩擦を回避する。こうしてできた価値観こそが、彼の社会との距離そのものであると彼が知覚するのは、寛解ののち、再び社会に目を向けたときである。

 

Log-0004

許すことと許されること、許しうる価値観と許されうる素体としての常識。

 

Log-0005

「かくあるべきだ」「この行いの先に穏やかさがある」と価値観を形成していく傍らで、それに一致しないすべてのひと=他人を“加害性のある人物”として扱うようになってしまったのかもしれない。

 

Log-0006

死生観

自己(の正しいこと・誤っていること)への自覚、責任、誠実さを持って人生をやっている

似通った二人の地獄を二人で歩く

対話

分かりあえないからこそ、分からないことを自覚する、分かり超えるための対話をする

関係(愛情)

同一化ではなく単体としての相互補強

劇薬ではなく漢方のような存在

 

Log-0007

自分が大事にしていること以外が致命的にちゃらんぽらんであるが、世間一般とどれくらいズレがあるかを意識しないと社交性は高まらないということがわかり、どれだけ価値観が合っていようが他人の相対的な評価軸から逃れることはできないと感じた。3月は衛生観念強化期間です。

 

Log-0008

逃げんな2024~後ろめたくても真っ直ぐやれ~

 

Log-0009

言わなきゃいけないことを言わないの、嘘をつくことと同じくらい誠実さに欠けるかもしれない

 

Log-0010

俺は「できないこと」が致命的にできず、その点において社会への適合性がカスであり、加えてこれに気づいたのが齢25なくらいには社交性がない。

 

追記:

22-24歳の間は、精神疾患を抱えながらの生活に対して「できないこと」を放棄することで対処していた。最低限生きていくための手法だったと言える。次は社会に出るための最低限を知るタイミングだと考えると腑に落ちる。今までと同じように必要なことをやっていくだけである。

Var-2,024/2/2

システムの記入日を格納する変数が不全につき日記ごとに日時の仕切りがない。上1月-下2月初旬の流れ

 

転職先のオフィス、スケールが壮大すぎて別世界だった いつか慣れるのだろうか。

 

ラカン(ラカンルーマン)・メイヤスー(ラカンとメイヤスー)について一通りの理解が進んだので記録。体系的に自分の言葉で発話するにはもうしばらく時間はかかるだろうが、有意義な時間であった。 以下雑メモ ラカン 意識は次の意識の生成・維持に寄与し、一方で、無意識は無意識の生成・維持のほかに、意識の生成・維持にも寄与する。 無意識から意識への意味・表象の還元は、精神分析学的な深層心理を介した複雑なプロセス、条件の中で機能し、そして“律動”された断続的な事象であろう。 精神分析家は無意識からの発言(パロール)=自覚し、意味づけを行うことに関して、その促しを担う。 分析によって、当人にとって不全とされる精神の動きを“特異性”として無意識から掘り起こし、意識の一部として受け入れ、意識の健全化、つまりブラッシュアップに利活用される。(精神分析の本意) 他者による自我の個性化は、客体としての、つまりコミュニケーションによって構築された、社会システム→心的システムを通じた役割規範的な価値形成であり、これは構築演繹システムに準じるものである。 想像界-無意識・記憶・非言語 象徴界-意識・言語・言語的物質 現実界-価値観・実存的物質 欲求(想像界)→要請(象徴界)→実現/実現失敗(現実界) 幼児は他者に全存在を委任するので、他者が不在になると存在の維持ができなくなる 他者の不在に対する根源的な懸念 →あなたがそこにいること →愛の欲求 母-自身の存在の委任者-依存先 父-母すらをシステムに巻き込む、ルールとしての社会からの使者-自立先 個人史 2歳半までは母に全委任-要請の受け入れ 第二の母-弟の誕生-祖母宅での生活 父の否認-ルールの拒絶を行い続ける(欲望的な自我) 第二の父-競泳(小6-高1)-「要請をすると罰が当たる」 メイヤスー 世界の今そうある限りでの設計をただ記述するのが数理であり、かつ、記述される世界はなんらそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化する可能性を孕み続ける。 →個別に絶対的に孤独な事実たち(客観的事実としての世界) ↓ 数理的事実=客観的事実の客観性を突き詰めるのならば、客観的事実には根本的な偶然性があり、いくらでも変容しうる。 →数理的事実と意味システム(認識)の間にある多様な可能性を孕んだ相対的な関係 ラリュエル 否定神学的X=絶対的真理(絶対的にすべてを言及しえる客観性=見解) →ひとつのXを追い求めるのではなく、より多様で複合的な諸関係を受容し、展開する必要がある

 

ラカンと思弁的実在論(客観的事実と客観性の関係) 客観的事実=想像界(的事実) 主観性/主観的事実=象徴界 客観性=現実界


周りの環境すべてが怒涛に変化し続けていて、目が回るし座り込みたくもなる。慣れるor再構築をもって、現状の心理的負荷を順応or離脱しなければならない。急ぎたくはないが、脳はもうフラフラである。身体を崩さないようにだけ気をつけたい。 →仕事・プライベート・実家(被災)・生活


他人の自己評価・自己肯定の話を聞くたびに「俺はどうだろうか」と考えてみるものの、やはり自分は自己評価が低く、自己肯定感は高い。 自分は自身の良いところも悪いところも"この程度で限界が来てしまっている"と感じていて、これに対して諦めを感じている。現状、これ以上よくなることはないという姿勢で自身を見つめている感覚に近い。加えて、"こうすればもっと良くなるのにな"という欲であったり案がだいたいある(どうしようもないという理由で案が湧かないものもある)。なので、極端にいうと"過去、現在の自分を低評価することで、明日以降の自分に常に期待が持てる"ようになっている。しょうがないことであると諦観的に自他を眺めることと、それを過去のものと見做すこと、そしてそれらは改善可能であるという自覚が組み合わさって成立している。と感じている。 これが健康な精神の形かと問われると危ういが、諦めの要素が消極的に見えるだけであって自認と積極性はむしろ高評価であり、こういった危うい価値形成をしている自分にはまだ改善の余地があるというだけのことなのである。

 

他人にとっての"自分を許す"という行為について考える必要がある。現状では、許さない範囲を定めることと同義と感じている。

 

たとえ何があっても自身を自覚し切るという覚悟の表れが非常に重要だと感じる。自覚し切るのには覚悟がいる。どんな痴態や無様さを晒し出したとしてもそれを己の所業として受け入れ、向き合い切ることが必要になるためである。痴態や無様さに嫌悪や苦しみがついて回っているということを自覚する。どうするかはそいつのオプショナルであるが、覚悟ガンギマリの自覚がなければ人生をやっているとも言えなくなってしまう気がする。


今の自分は、とにかく時間がたくさんの時間を(できるだけ無痛に)過ぎ去ることを望んでいる。帆は張った。なので、過ぎゆく時間に身を任せれば、良くなり続けることはわかっている。帆を張る=転職だったり、家計だったり、健康状態であったりを好転の兆しの下に晒したのも他ならぬ自分であり、これは評価に値する。なので、あとは時間と己が過ぎゆくことだけを待ち、その間に現れる摩擦から身を守る。しかし、摩擦の受難から逃げることはあってはならず、それは自身の帆を緩めてしまう行為、つまり、自身の向く方角を見誤ることと同義であり、その結果、はたまた難破する可能性を孕み続けるということを自覚せしめるほかない。おそらく六月が終わる頃には健やかさや豊かさを感じられるようになっているはず。それが望ましい。

 

知識がないと認識ができず、認識がないと自覚ができず、自覚がないと責任が持てず、責任がないと誠実でないんだよなァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

↑は車で言うとエンジンの話であって、倫理はハンドル、アクセルは覚悟(欲~義務)だと思っている。

 

倫理だとか道徳だとかと言うと小難しく不可視の概念に思えてしまうが、単に善悪、良し悪しを判断する物差しでしかない。端的に言うなれば価値観である。そして、思考とそれに伴う感情の反芻、積み重ねが価値観の正体であって(ラカンルーマンの理論を使った複合的な解釈になるが)、要はそいつのしてきた複合的な経験による極めて単一的な解釈のそれでしかない。肝となるのは「思考とそれに伴う感情、そしてそれを引き起こすイベント」であるが、イベントがなければ価値観の形成の機会はなく、イベントについて思考するための知識がなければ整合性の取れた感情はアウトプットされない。「考えるの苦手なんだよね〜」と言った日には「なるほど、知識不足ゆえに自身の倫理感に対する自覚がないということですね」と取られてしまっても致し方がない。 また、アウトプットされた感情が都合の悪いもの(たとえば、自己破滅的な境遇の苦しさを受け入れ難い)であったとき、それを自らの思考の副産物(唯一自己のみによるよる所有物)であると認めることができなければ、それは価値観にはならず「脳の中をドロドロと垂れ流れる不快ななにか」としか認知できない。 「自分の考えを言語化するのが苦手なんだよね」と言った日には「なるほど、不都合な思考や感情には直視、対面ができないということですね」と述べたことと同義になってしまうかもしれない。 これらが悪いと言うことではなく、ただ倫理という名の刀の刀身を見誤り他人を、自分を傷つけることもあろうというだけのことである。個人的にはそういった部類の悩みに苦しむ人の支えになる言葉をかけ、扱うに足る倫理を自覚して欲しいと祈るのみである。それくらいしかしてあげられることはない。

 

食事に関する意欲がほとんどなく(甘いものは嬉しい)、そのくせ空腹には本当に敏感で、なんならかなり不快。 腹が空かなければ自炊をする気になんてならないし、腹が空くころには自炊をする気力はない。コンビニに飯を買いに行くのも億劫で、というか、そもそも外に出るという行為そのものがかなり苦手で、それなりのきっかけや理由がないと腰が上がらない。 少なくとも〇〇が食べたい!と思い立って外に出るようなことが起こらない。なので、食材を買いに行こうとも思えないし、コンビニに行こうとかも思えない。怠惰なのか、退廃がすぎているのか、どっちでもいいが正直生き辛い。


友達と話していて、俺は"いつも通り"への執着が強くて、かつ(社会一般と比較して)凝り固まっているのではないかという話になった。そいつと知り合ってそろそろ10年が経ちそうな気がするけど、なにも何年もびっしり関わっているわけでもなくなにかきっかけがあれば都度関わる程度で、互いに同じ時間の分だけ月日に流されている中で、たまたまその瞬間だけ交わっている。肝だなと思うのは同じ時間を(共有するでもなく)それぞれが過ごしているという点で、接点さえ発生すればいつまでも続く関係だと思えることである。"いつも通り〇〇している"のと同じくらい"いつも通り交わっていない"ということにも意識は向けるべきだなあと、通話を切ってふと考えた。


こうした方がいい、こう在ったほうがいいといった類の考え方は多々あり、それに首を絞められる感覚。こういった考えのパターンは物事を捉える際の志向性を高める一方で、極めて狭まった"正解と思えるものごと"への偏りを生む。社会との距離も、普段関わる人との距離も、自分の言動にも、排他的になれてしまうために限定的な価値空間に引きこもってしまうのが困りごとである。もうすこしオープンに、絶対性を取り除きつつも己の物差しとして機能するようにありたいものである。たとえば正義への信仰をモラルとしての解釈の粒度まで落とし込むように。


ここ数年、「許せない人のことが嫌い」というジレンマに囚われている


自分に寛容になれない程度には許容できないことが多く、自分の価値観で自分の首を絞め、その分だけ人との繋がりを断ってしまっている感覚がある。

 

人間不信

・高校時代の"悪ノリ"での裏切り

└自身が生徒会長として主催した制服変更選挙にて、仲の良かったグループからの組織票で企画の共倒れをされ、陽キャ的な悪ノリが苦手に ・精神疾患による社会に対する拒絶

└大学3年、パニック障害になったことによる価値観の変容(頑張らなくていい)が原因で社会との距離ができる

・交際相手からの否定

└別れ際、アイデンティティを主とした自己防衛のための主張(攻撃)を受け同界隈の人間全般が苦手に


とにかく自覚・対話・誠実を続けよう


環境の変化→慣れた 心地→有限性・相対性を強く感じるようになった(物事の評価がリアリズム準拠に近づいた?)

身体→体重は減らず、食生活は改善気味、ジムは程よく行けている

精神→いくつかの未解消事案につき焦燥は続く