宇田

そのとき考えていること

{2024-04-27~2024-05-07}

2024年4月27日

結局のところ、変わっていく環境、求められるように吊り上げられる言動に、自身が自覚できていないということが大きなネガティブな要素だったと思える。

 

2024年5月3日

おそらく今までに沢山の期を逃している。万全出なければ土俵に立つべきではないという思想があり、その上でここ数年の間、万全に至ることがなかったためである。取りたい/求められているコミュニケーションがあったとしても、自分に他者を巻き込む自信がなく、かつ、他人に巻き込まれ万一の受難した際、耐え切れる自信がなかったためである。

ようやく自信が持てる。取りたいコミュニケーションも、求められたコミュケーションも、責任を持って挑むことができるようになる。おそらくは六月半ば。さして何かが変わるわけではなく、これまで耕した土壌を肥えさせるための暮らしを続けていくのみである。過去の愚行も受難も、連ならなかったものなどないと了解した上で、今の土壌がある。これから先も、たしかに見据えることができると了解可能な地続きである。

 

2024年5月6日

環境が人を形作るというのは案外否定できないものであり、かくいう俺は近所に巨大スーパーを発見したことで食事の選択肢がグンと広がり、GWの1週間でヌルッと1kg減量していた。(まいばすけっとには必要最低限の選択肢しか用意されない)

思うに「この食材はこう使うと面白いのではないか、そんで美味しかったらうれしいなあ」といった具合の仮説・検証を日常生活で行うことが刺激的である。ありがたいことに、この検証結果を共有して一緒に喜んでくれる人がいる。いつか一緒に料理をしてみたい。絶対楽しい。

まさか自分が食材、料理そのものに興味を示すとは思いもしなかったわけだが、やはり巨大スーパーという偉大なる環境によって、食生活・知的好奇心の矛先・コミュニケーションまでもが刷新されつつある。良い変化へと足を進めていくのみである。

 

2024年5月7日

GWが終わる。心身ともに良い変化を受け入れられた期間だった。何もしないという選択が暮らしへの解像度をあげたからである。明日以降の糧となることを祈る。

判断の考察

ここ数ヶ月考えていた自己肯定、自己評価、価値判断について、ようやく理解がまとまったので記録した。GW讃歌である。

環境の変化に心身がついてこなかったのか、メンタルの不調を超えて、全うな価値判断すら怪しくなっていたのが1月あたりからの自認であった。その点、下記の考察は過去数回分の陰鬱めいた日記へのアンサー足り得るものであると評価している。これは“やはり”望ましいことである。

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〈判断の考察〉

ラカン的に考えるのであれば、事物に対する感情が善悪の判断を伴って無意識に蓄積されるわけだが、ではその善悪の基準がどこにあるのかというと、意識である。価値観という単語を扱うと捉えやすくなるが、原則我々は価値観(今とこれまでの意識の積み重ね)を物差しとして事物に対面し、嬉しいだとか不快だとかという感情としてアウトプットを行う。感情は「事物に対してこう判断した」というレビュー結果を価値観に還元し、今以降の判断の糧としより自我を強固にする。

={フローA}


一方で、自我つまり主体は、他者からの影響を避けるすべを持たない。ゆえに、主体AによるフローAは、他者としての個人=主体BによるフローBとも、主体群たる社会=遥かなる主体ZによるフローZとも干渉しあう。

 

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自他を問わない多様な感情(と意識/無意識)の中で自我としての感情を有意なものにするには、やはり感情と相互還元しあう意識そのもの、つまり価値観を伴った価値判断を有意にするほかない。ましてや自我における価値の所在もわからぬままでは自己評価はもはや機能不全であり、さらには、なされるがままに客体からのまなざしから影響を受け、アンコントロールな判断(とそれにともなう感情・欲)を出力しつづける価値の奴隷となる。

=判断不全


西田・福岡は共通して「生命において、秩序は守られるために絶え間なく壊されなければいけない」と述べており、ルーマンの場合は社会において、ラカンは精神において同様の展開を行う。

特に西田は、先のフローにおける事物の知覚→価値判断への還元の一連そのものを自覚せしめよと言う。食べるということは次に排泄があるということ、息を吸うということは次に吐くことがあるように、知覚→判断によりある程度の期待・予測が可能な価値判断が再構築されることを自覚するということである。福岡はこの構築と分解の流れを「動的平衡」と呼ぶ。これは、物体の生命が絶えず「分解」(排泄・吐く)と「合成」(食べる・吸う)を繰り返すことによるエントロピー保存の法則に拠するシステム論である。自己言及性、自己準拠性と説明される動的平衡オートポイエーシスとも呼ばれ、ルーマンはこれを社会システムの展開に充てる。

自我においてこれを捉え直すとすれば、知覚→判断の動的な繰り返しによって今以降の自我は言及可能である、また、その形容は今以前の自我に連なりに準拠されるということである。

ゆえに、今以前の理解、今の自我を用いた知覚、今以降の自我の生成に対する自覚を併せることによって、適切な自己評価は可能である。その上で価値判断においても、自己の連なりに準拠した形で肯定・否定が行われるということを自覚することが可能である。ひいては、この自覚ができており、適切に自己言及がされた価値判断が行われているということを知覚することは、紛れもない「肯定」の評価に値するものである。

 

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{2024-04-22~2024-04-26}

2024年4月22日

禁欲的虚無


1.過ちを繰り返し内省する

2.否定する要素の増加(ないし、価値観の形成)

3.禁欲思想の構築

4.1~3の繰り返し

5.自己批判の常態化・拡大

6.肯定の消失・目標の喪失・消極性増殖

7.耐えながら最低限すべきことに注力する(就活・労働)

8.すべきことの解消

9.人生への動機の消滅

10.外部からの否定

11.自己否定の増加

12.鬱化

13.虚無性に対する自己否定(以下ループ)

 

2024年4月25日

近代以降の合理主義的社会とそれに即して生きる人にとって、哲学とは少し相性が悪い。正の判別に秀でる側面からして、悪(正以外の存在)の否定にも徹底しており、「正の種類は多種多様」と言わんとする脱構築の体系においても、絶対性の排他は(その理屈が強い限り)必然とその力は多大である。

個人の在り方が正だけで済む社会であればよかったわけだが、考えるまでもなく理屈立てられた「正とされる状態」と生の人生には人それぞれのギャップがある。距離が大きければ悪とすることも容易く、合理性を保つほどに自己・他者否定が邁進するきらいがある。

肯定には、同じ価値判断を持つ他者からの同意や恩赦、または当人の価値判断の変容が要される。(あるいは、当人が「正とされる状態」に自身を強制するほかない。)このような状態で悪性を自認しながら心地よく過ごし続けるということには「許しがない」という観点において無茶が生じる。生きているだけでえらいと言うために、正の座標を、認識を自身の現状にフィットさせるのはこのためである。

 

2024年4月26日

判断について考える必要がある

2024-04-03~2024-04-21

2024年4月3日

発話とは応答要求であり、発話の受動体は承認・否認・無視の中から応答を行う。

私、あなたは、個人としての感情-思考-価値観に加えて、二者以上の主体たちとしての共謀的な価値観も持ち合わせており、これはドラマトゥルギー役割期待というように呼ばれ、「常識」や「当たり前」、「共通認識」という形のシステムとして発現する。

発話・応答の対象においては、「1:1(わたしから見たあなたへの言及)」や「2:n(わたしたちから見たなにかへの言及)」、「1:n:1(わたしから見たなにかに対するあなたの言及)」など、主体と客体は変わる代わりポジションを変え、その都度、対象に対する応答、つまり承認・否認・無視が行われ、また、その応答に対する応答がなされる。この繰り返しの先にあるものが、二者間以上での価値合意の省略であり、”言わずとも元々そうである“「常識」「当たり前」「共通認識」を創出したり、より強固なものにする。

承認にしても常識にしても、選択(や選択のかたまり)として収めて捉えることができる。「選択する」という行為は「選択しないものを選択する」ことであり、つまり承認の際には、承認されないものの全てを定義づけていることがしばしばである。

もし、二者間以上でのコミュニケーション(自分に対する相手の認識、相手に対する自分の認識、自分たちからみた第三者や社会への認識、自分から見た第三者や社会への認識に対する相手の認識.etc)に違和感やギャップ、不満がある場合は、自分にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)と、他者や社会通念にとって承認可能なもの(と承認されないもののすべて)のズレを認知する必要があり、また、承認しないこと=否認・無視することによる加害性を自覚することで、対話の可能性は維持される。これは対話が一回きりのものではないのと同様に、持続的に認知・自覚(≒自己言及)が行われることで、無自覚な暴力を取り除き続けること、ないし取り除かんとする意思の持続が可能である。

 


2024年4月8日

「常識」や「当たり前」というのは理解可能性を孕んでおり、それが見当違いであることもしばしばであり、そういった意味では暴力性を持っているとも言える。これは、他者を主体=近しい存在として扱い対話の必要性を排他する機能を持つ。無論、その方が楽であり、世界中の人々に対して一から十まで対話し合い切るなど不可能だからである。一方で、この事実は逆説的にこう捉えることもできる。どんなに親しい他者であっても客体=理解できないものとして“理解”することは可能である、と。社会的なレッテル、自身の主体的な価値判断の先に対話可能性を用意しておくことで、どんなに理解できない人でも、どんなに理解できる人であっても、「主体=自身とは違う場所にある他者は客体=理解しきれないものであるために、持続的な対話、その都度の認識の止揚こそが理解可能性を産み続ける」ということである。

 


2024年4月13日

幸せになる権利も条件も、ようやく持ち合わせたはずなのである。

 


240415追記:

自分のものですらない誰かの価値基準で幸せを判断している。自分の仮説で対話をし、応答を求めないのならそれは自分に対して暴力的である。

 

 

 

2024年4月13日

大体のことはおもんなくなっていく。わかってしまえば考えることもなく、頭を抱えることもなく、報酬(成果)どころか周辺一帯の選択がまるっと省略され、二度とわからない状態にはもどれない。

 


2024年4月13日

応答がないと知ってさえいれば、初めから発話をしようだなんて思いもしないだろうということである。

 


2024年4月13日

今日この日を不幸に思えないことが、明日以降のあらゆる動機を断ち切ってしまい、心脈すら動かせなくなってしまうのではないかと恐怖している。

 


2024年4月13日

散々の怠惰を許して、諦観したからこそ、今日まで生きてしまえていて、それこそが明日以降の日々を良くし続けるための不満も不幸を抑圧している。

(不満がない場所には本当に改善はないのか?改善のない日々に生きる意味を感じ取ることはできるのか?)

 


2024年4月13日

応答がないというのは否定されることよりも耐え難い。否定があるうちは改善が見込める。

評価も承認も否定もない中で、人は本当に一人で満足に生きていけるのだろうか。​(唯一満足に死ぬことだけは可能であるように思える)

 


2024年4月14日

社会人としてそれとなく生きてしまうことができるがゆえに、規範や価値観の再構築の機会が訪れず、暮らしや人生に対する動機を見失う人が多いように思う

 


2024年4月14日

大前提に、不満がなければ欲求の産まれようがなく、欲求がなければ動機の産まれようがなく、動機がなければ努力も改善も起きえない。

 


2024年4月14日

精神疾患になり、最低限生き延びるために「頑張らなくていい」と家事や人間関係を蔑ろにしてきた。結果として注力した仕事はうまくいって精神疾患も解消してきたが、「頑張らなくていい」と手放した常識や観念はそのままで、むしろこのままでもうまくいっていると思っているのか乱れた食生活、散らかった部屋などに不満を抱くのが難しく、改善してよりよく生きていくための動機が持てていない。

 


2024年4月14日

自分を肯定するとしたら、赤字でいいんだよ、健康診断引っ掛かっていてもいいんだよ、と言い聞かせることになる。適切な評価の結果が有罪なのであって、開き直ってポジティブに「ここから頑張っていこう!」と思えてしまうなら刑務所は必要ない。罪の意識が大きすぎる。

 


2024年4月15日

生きる理由だとか自己肯定などと考えるからややこしいのであって、単に価値基準の話ではないか。

 


2024年4月15日

セルフケアが脚光を浴びる時代である。弱さを自覚したときにセルフケアは光る。距離を取ること、諦めること、勢いを落とすこと。生きているだけで偉いという言葉さえ露見するように、停止さえしなければ減速は大いに歓迎されている。

一方で、人と歩むスピードが変わって産まれた距離、価値観の差、善悪の判断の尺度はある種取り返しのつかないものである。脱構築的でパーソナライズドな心地よさは、私の、彼だけのものであり、第三者のレビューなしには孤立を免れることはない。

であればパーソナルな部分が似通ったコミュニティで対話を行い、承認を得ることが重要に思える。しかし、セルフケア≒減速が必要になった経緯も、必要な程度も人によって異なる。個々人がそれぞれの必要に応じてそれぞれの価値観を社会一般から自ら遠ざけ個別最適しているという事実だけが色眼鏡のない捉え方と考えられる。

必要なのは減速が必要な状態である(であった)こと、そして、「あなた」のセルフケアを肯定するという同意形成ではないだろうか。かくして、孤立した価値観は承認を得て、コミュニティの一員としての存在を認められる。それはすなわち、自分の目線だけでは判断のつかない価値観を認め合うことであり、存在≒生存を認め合うということである。

社会は消費を促し、雇用を産み、経済を成り立たせる。(もちろん社会に適合できない人が大勢いることは認識した上で)社会で労働活動を営みながらも、その母体の大半とは価値観に距離があり、一方で、労働資本として社会への適合が叶ったがゆえに頭を抱える必要がないという独特の悩みを持つ者は一定数存在する。

弱さをもった個体として悩み考えセルフケアをする。一方で、労働資本として老先数十年を歩き続けるほどの動機は見出せない。大半の労働資本がマジョリティとして価値観を持つがゆえに、第三者からのレビューが行われない。そういった人が、社会には確かに存在するのではないか。(わたし以外にも)

 


2024年4月15日

外に出るという判断は間違っていなかった

 


2024年4月16日

持続可能で自覚可能な思考、価値観、感情を回していきたい。

 


2024年4月20日

ストラテラの減薬を開始し変化を感じたので記録。ひとつの物事に対する集中力が失われている。意識が散漫に飽和していく感覚があり、本を読んでいても意識の的が定まらない。​現にこの文章を打つのに結構な時間がかかっている。

一方で、散漫になんとなく家事ができてしまったり、精神的な負荷が高い思考が長続きせず、​結果的にストレスが軽減されているような気もする。

 


2024年4月20日

「ここまできてまだお前は他人のことが怖いんですか」とセルフツッコミをしている

応答がないことが一番怖いと知っているのに

 


2024年4月21日

自分の行く末を看取りたいがために生きており、自分のためなら死ねると考えれば、今感じている空虚は相手にすらならないかもしれない。

 


2024年4月21日

〈減薬を開始した所感〉概ねそんなもんだろうと思ってはいたものの、向精神薬に支えられながら生きた時間の分だけ、感覚も欲も思考も価値観も自分の外部にアウトソーシングしていたとはっきりわかる。一番わかりやすいのは眠剤で、かれこれ3年ほど飲んで過ごしたために、「どうやって眠っていたのか」を思い出せていない。ADHDの薬なら意識の使い方、不安障害の薬なら深呼吸の仕方さえも薬に教えてもらっていたようなものである。もう必要ないと言うからには、また一から身体の感覚を、心の感覚を養っていくほかない。

{!その時考えていること}-[2024-03-19~2024-04-13]

2024年3月19日

花粉により心身創痍。なにか打開点はないかとウォッチリストを眺めたりジムで脳汁を出してみたり、しかし、そんなところにブレイクスルーはない。唯一にして最大の打開は花粉の打開。花粉によるパフォーマンス低下を防ぐ。

 

2024年3月28日

やっていくだけである、やれればすべてが解決する話である

 

2024年4月12日

困難が解消すると「何もやることがない」と感じてしまうのはある種立派な自傷的な心象に思える。したがって、少しずつ乗り越えていくような小さな壁を暮らしに用意すべきだと考える。一方で、私が獲得した幸福の寸尺というのは「苦しくないこと」の域を出ることがなかったために、どうしようもない頭打ちのむず痒さき苛まれる。

 

2024年4月13日

「幸せになろう」という欲が薄く、低空飛行の現状を抜け出す動機がみつからない感覚がある。目に見えて良くなっていく環境とは裏腹に心がついてきていない。ダメなことの定義は明確だが、ダメである理由やダメだと心象を以て思えないと動けない。本当に苦しかった時期に「ダメでもいいんだよ」「これでもいいんだよ」と許しすぎたのではないか。

 


追記

本当に苦しかった時期は「過剰な許し」を用いて自己防衛をしていたように思う。明らかにアウトな(たとえば散財、暴食、暮らし)を許すことで苦しさを肯定してみせる。そうやって世間との距離がどんどん離れていった記憶がある。「散らかったままの部屋でもいいんだよ」「体重が増えているけど仕方がないことなんだよ」「これでいいんだよ、仕方がないんだよ」と隆々に築かれた壁は、とても大きく、これまでの思考や価値観を生々しく反映した産物で、どうやって乗り越えるべきなのか今のところ検討がついていない。

{!その時考えていること}-[2024-03-16~2024-03-28]

2024年3月16日

仮説


異性愛の対象条件〉

考えていて、諦めずに、どんな状況でも止揚し続けることを肯定されること(もっと言えば「それが良い」と意思表示されること)


〈友愛の対象条件〉

上記の肯定を私が対象に対して行うこと

 

2024年3月16日

AsIs-ToBeに則って実現(メジャーアップデート)された理想のシステムが、実際に運用されることでまた新たなAsIsとして現状像が発現する。(マイナーアップデート)

繰り返される構築と運用の過程で、真に目指すべく指針がブレてしまわないように、あるいは意図と根拠を持って変容させる際の方法論というのは、ある種のシステムという生き物の代謝であり、人の人生と似ているとすら思える。

 

2024年3月19日

アクセスしないと見ないBIより、強制的に視界にデータを表示させるプッシュ通知の方が怠惰人間には効く気がしてきていて、となると「プッシュ通知の表記制限内での必要最低限かつ効果的なデータ変数の定義付け」が必要になってくる(ので考えている)

 

2024年3月19日

「死ぬまで生き続けるんだなあ」と実感できるようになってきたけど、実現への過程やステータスとかは全くイメージできていない

 

2024年3月22日

いい歳して恩赦と説法を受けてしまったので、どうやって苦しむか・頑張るか・解釈するかのハンドルが他人に握られている、かなり苦しい

 

2024年3月22日

俺は絶対に逃げないけど、痛いものはちゃんと痛くて苦しい

 

2024年3月22日

都度母との意見のずれはあったが、ここまで顕著に溝が広がったのは今回が初めてである。母は理想が高い。厳密にいうと「田舎神話を真っ当に突き進み、優良優等生として成果を残してきた十数年前の”私“」が母が私に強いるロールモデルである。

残念なことに精神疾患や就活浪人、転職、そして困窮といったここ数年の私のライフイベントは私にとっては腹落ちできるものになったうえで、ようやく「やっていくしかない」と思え、少しずつ暮らしを人生を前に進めてきたのである。

そういった自分なりの苦しみ方、努力の仕方、解釈の仕方を価値観として設けた。ダメなりに生きていくために。

進学で上京してようやくそれから逃れられると感じていたのが私の本心であり、その地続きに今の自分がある。

ここ数年自分を守ってきた「しょうがないからやるしかない」という言葉が真上から押し潰されて、母からの連絡が今となっては全て罵声に聞こえるようになってしまった。これは罵声以上に、自分と母のずれを「仕方なくない!!立派に生きなさい!!!」という命令ないし教育として受け入れ、支配下に降るということである。その主張を受けるたびに「じゃあ俺はどうやって生きればいいですか」「失敗作なので死なせてもらっていいですか」と大きな溝の底で、ただ失っただけのそれではない、「親との離別」「おしまいである」

 

2024年3月23日

ダメであることを許してくれる一人暮らし、東京という環境は自分にとって大層居心地がよかったのである。

 

2024年3月23日

ダメな自分で生きていくことに向き合って、人から見れば泥水を啜るような暮らしでも、責任を持って少しずつ前に進めてきたはずである。

 

2024年3月26日 

自分に対する期待や希望、頑張る理由が自分の中にはもう見つからない気がしていて、そのうえ極端なことに「自分はどうなっても構わない」という気持ちがあるため、ゆるやかな死に向かってズルズルと退廃してしまっている。

 

2024年3月26日

なんと皮肉なことか、死なないために必死だった日々の方が活気に溢れ、些細なことでさえ幸せに感じたものである。

 

2024年3月28日 

声が上がる限りは議論の余地があり、悩み考える限りは止揚の余地がある。いつか機会は失われてしまうが、今、ここに余地がある。

Var-2,024/3/12

Log-0025

ただ日々が続いていくこと、持続性のある一日を組み立て続けること、ただ日々が続いていくこと

 

Log-0026

承認が親愛の条件であると自らの特性に気づきつつあるが、「そういう在り方でいいんじゃない」ではなく「そういう在り方が良い」という許しであったり、認めがより有意なように感じる。(当たり前と言えば当たり前だが)

前者の承認であっても偏屈な自分としては本当にありがたいことであるので、これが理由で「あなたに惹かれはしない」と結論づけるのも苦しく感じる。自分の価値基準に対して苦しいもなにもないだろうし、そもそも何様のつもりだと言われてしまうとぐうの音も出ないが、それは自分自身の価値基準を他人に向けるもの、世間に晒すものとして“良いもの”であると自信を持って言えないからであろうと考えている。

自己評価の低さは相変わらずのものだなと感じる一方で、それは他者からの否定を恐れるあまりの判断であると仮説を立てているところで、いっそのこと”ちゃんと否定されにいく“という過程は今の自分には必要な気もしている。

 

Log-0027

自己評価として「たくさん考えて色んな手法で試行錯誤して争い続ける」ことがかなり本質的だなと自認しつつあるけど、これって就活でも同じようなこと言ってたなあと思い少し恥ずかしい。

 

Log-0028

ただ日々の繰り返し、これを怠らないことこそがもっとも建設的で健康的な営みだと信じてやまない。一方で、この日々の繰り返しの先にあるものを考えたときに真先に思い浮かぶのは「死ぬまで今と同じように一人で生き切った自分」であり、確かに望むものであることに違いはないものの、それは本当に幸せなのだろうかと疑っているところに否定はない。

 


『マインクラフトを死ぬまでソロモードで遊ぶか、死ぬまでマルチプレイで遊ぶか、どっちか選べって言われたらどうするよって話なのよ』

 

Log-0029

日々を怠らず続けるのは当たり前、その上でどんな日々を積み重ねるかを考えて組み立てることが求められている。

 

Log-0030

生きていけるけどっていう程度に消耗戦を耐え続けるしかないのかなと考えてる

いつまで耐える?どうなったら戦いが終わる?

 

Log-0031

社会的役割も責任も価値観も、年を食った分だけ身についていって一日を無限回繰り返すことでちゃんと死ねる身分になってきている気がする。そうなると、

{どう死ぬか}=

{どんな環境でどんな一日を過ごすのか}x無限回

に焦点が当たるようになり、すると今(から死ぬまで続いていく)暮らしの消耗・摩耗を抱えたままでいいのか?と問うようになる。どうすれば摩擦が負荷が減るのか、強度が効率が上がるのかはまだいまいちピンときていないが、目下孤独だけはあまりにも摩擦を生みすぎていると感じている。