宇田

そのとき考えていること

判断の考察

ここ数ヶ月考えていた自己肯定、自己評価、価値判断について、ようやく理解がまとまったので記録した。GW讃歌である。

環境の変化に心身がついてこなかったのか、メンタルの不調を超えて、全うな価値判断すら怪しくなっていたのが1月あたりからの自認であった。その点、下記の考察は過去数回分の陰鬱めいた日記へのアンサー足り得るものであると評価している。これは“やはり”望ましいことである。

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〈判断の考察〉

ラカン的に考えるのであれば、事物に対する感情が善悪の判断を伴って無意識に蓄積されるわけだが、ではその善悪の基準がどこにあるのかというと、意識である。価値観という単語を扱うと捉えやすくなるが、原則我々は価値観(今とこれまでの意識の積み重ね)を物差しとして事物に対面し、嬉しいだとか不快だとかという感情としてアウトプットを行う。感情は「事物に対してこう判断した」というレビュー結果を価値観に還元し、今以降の判断の糧としより自我を強固にする。

={フローA}


一方で、自我つまり主体は、他者からの影響を避けるすべを持たない。ゆえに、主体AによるフローAは、他者としての個人=主体BによるフローBとも、主体群たる社会=遥かなる主体ZによるフローZとも干渉しあう。

 

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自他を問わない多様な感情(と意識/無意識)の中で自我としての感情を有意なものにするには、やはり感情と相互還元しあう意識そのもの、つまり価値観を伴った価値判断を有意にするほかない。ましてや自我における価値の所在もわからぬままでは自己評価はもはや機能不全であり、さらには、なされるがままに客体からのまなざしから影響を受け、アンコントロールな判断(とそれにともなう感情・欲)を出力しつづける価値の奴隷となる。

=判断不全


西田・福岡は共通して「生命において、秩序は守られるために絶え間なく壊されなければいけない」と述べており、ルーマンの場合は社会において、ラカンは精神において同様の展開を行う。

特に西田は、先のフローにおける事物の知覚→価値判断への還元の一連そのものを自覚せしめよと言う。食べるということは次に排泄があるということ、息を吸うということは次に吐くことがあるように、知覚→判断によりある程度の期待・予測が可能な価値判断が再構築されることを自覚するということである。福岡はこの構築と分解の流れを「動的平衡」と呼ぶ。これは、物体の生命が絶えず「分解」(排泄・吐く)と「合成」(食べる・吸う)を繰り返すことによるエントロピー保存の法則に拠するシステム論である。自己言及性、自己準拠性と説明される動的平衡オートポイエーシスとも呼ばれ、ルーマンはこれを社会システムの展開に充てる。

自我においてこれを捉え直すとすれば、知覚→判断の動的な繰り返しによって今以降の自我は言及可能である、また、その形容は今以前の自我に連なりに準拠されるということである。

ゆえに、今以前の理解、今の自我を用いた知覚、今以降の自我の生成に対する自覚を併せることによって、適切な自己評価は可能である。その上で価値判断においても、自己の連なりに準拠した形で肯定・否定が行われるということを自覚することが可能である。ひいては、この自覚ができており、適切に自己言及がされた価値判断が行われているということを知覚することは、紛れもない「肯定」の評価に値するものである。

 

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