宇田

そのとき考えていること

Var-2,024/2/2

システムの記入日を格納する変数が不全につき日記ごとに日時の仕切りがない。上1月-下2月初旬の流れ

 

転職先のオフィス、スケールが壮大すぎて別世界だった いつか慣れるのだろうか。

 

ラカン(ラカンルーマン)・メイヤスー(ラカンとメイヤスー)について一通りの理解が進んだので記録。体系的に自分の言葉で発話するにはもうしばらく時間はかかるだろうが、有意義な時間であった。 以下雑メモ ラカン 意識は次の意識の生成・維持に寄与し、一方で、無意識は無意識の生成・維持のほかに、意識の生成・維持にも寄与する。 無意識から意識への意味・表象の還元は、精神分析学的な深層心理を介した複雑なプロセス、条件の中で機能し、そして“律動”された断続的な事象であろう。 精神分析家は無意識からの発言(パロール)=自覚し、意味づけを行うことに関して、その促しを担う。 分析によって、当人にとって不全とされる精神の動きを“特異性”として無意識から掘り起こし、意識の一部として受け入れ、意識の健全化、つまりブラッシュアップに利活用される。(精神分析の本意) 他者による自我の個性化は、客体としての、つまりコミュニケーションによって構築された、社会システム→心的システムを通じた役割規範的な価値形成であり、これは構築演繹システムに準じるものである。 想像界-無意識・記憶・非言語 象徴界-意識・言語・言語的物質 現実界-価値観・実存的物質 欲求(想像界)→要請(象徴界)→実現/実現失敗(現実界) 幼児は他者に全存在を委任するので、他者が不在になると存在の維持ができなくなる 他者の不在に対する根源的な懸念 →あなたがそこにいること →愛の欲求 母-自身の存在の委任者-依存先 父-母すらをシステムに巻き込む、ルールとしての社会からの使者-自立先 個人史 2歳半までは母に全委任-要請の受け入れ 第二の母-弟の誕生-祖母宅での生活 父の否認-ルールの拒絶を行い続ける(欲望的な自我) 第二の父-競泳(小6-高1)-「要請をすると罰が当たる」 メイヤスー 世界の今そうある限りでの設計をただ記述するのが数理であり、かつ、記述される世界はなんらそれを保証する根源的意味がなく、いつ何時、まったく別のあり方に変化する可能性を孕み続ける。 →個別に絶対的に孤独な事実たち(客観的事実としての世界) ↓ 数理的事実=客観的事実の客観性を突き詰めるのならば、客観的事実には根本的な偶然性があり、いくらでも変容しうる。 →数理的事実と意味システム(認識)の間にある多様な可能性を孕んだ相対的な関係 ラリュエル 否定神学的X=絶対的真理(絶対的にすべてを言及しえる客観性=見解) →ひとつのXを追い求めるのではなく、より多様で複合的な諸関係を受容し、展開する必要がある

 

ラカンと思弁的実在論(客観的事実と客観性の関係) 客観的事実=想像界(的事実) 主観性/主観的事実=象徴界 客観性=現実界


周りの環境すべてが怒涛に変化し続けていて、目が回るし座り込みたくもなる。慣れるor再構築をもって、現状の心理的負荷を順応or離脱しなければならない。急ぎたくはないが、脳はもうフラフラである。身体を崩さないようにだけ気をつけたい。 →仕事・プライベート・実家(被災)・生活


他人の自己評価・自己肯定の話を聞くたびに「俺はどうだろうか」と考えてみるものの、やはり自分は自己評価が低く、自己肯定感は高い。 自分は自身の良いところも悪いところも"この程度で限界が来てしまっている"と感じていて、これに対して諦めを感じている。現状、これ以上よくなることはないという姿勢で自身を見つめている感覚に近い。加えて、"こうすればもっと良くなるのにな"という欲であったり案がだいたいある(どうしようもないという理由で案が湧かないものもある)。なので、極端にいうと"過去、現在の自分を低評価することで、明日以降の自分に常に期待が持てる"ようになっている。しょうがないことであると諦観的に自他を眺めることと、それを過去のものと見做すこと、そしてそれらは改善可能であるという自覚が組み合わさって成立している。と感じている。 これが健康な精神の形かと問われると危ういが、諦めの要素が消極的に見えるだけであって自認と積極性はむしろ高評価であり、こういった危うい価値形成をしている自分にはまだ改善の余地があるというだけのことなのである。

 

他人にとっての"自分を許す"という行為について考える必要がある。現状では、許さない範囲を定めることと同義と感じている。

 

たとえ何があっても自身を自覚し切るという覚悟の表れが非常に重要だと感じる。自覚し切るのには覚悟がいる。どんな痴態や無様さを晒し出したとしてもそれを己の所業として受け入れ、向き合い切ることが必要になるためである。痴態や無様さに嫌悪や苦しみがついて回っているということを自覚する。どうするかはそいつのオプショナルであるが、覚悟ガンギマリの自覚がなければ人生をやっているとも言えなくなってしまう気がする。


今の自分は、とにかく時間がたくさんの時間を(できるだけ無痛に)過ぎ去ることを望んでいる。帆は張った。なので、過ぎゆく時間に身を任せれば、良くなり続けることはわかっている。帆を張る=転職だったり、家計だったり、健康状態であったりを好転の兆しの下に晒したのも他ならぬ自分であり、これは評価に値する。なので、あとは時間と己が過ぎゆくことだけを待ち、その間に現れる摩擦から身を守る。しかし、摩擦の受難から逃げることはあってはならず、それは自身の帆を緩めてしまう行為、つまり、自身の向く方角を見誤ることと同義であり、その結果、はたまた難破する可能性を孕み続けるということを自覚せしめるほかない。おそらく六月が終わる頃には健やかさや豊かさを感じられるようになっているはず。それが望ましい。

 

知識がないと認識ができず、認識がないと自覚ができず、自覚がないと責任が持てず、責任がないと誠実でないんだよなァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

↑は車で言うとエンジンの話であって、倫理はハンドル、アクセルは覚悟(欲~義務)だと思っている。

 

倫理だとか道徳だとかと言うと小難しく不可視の概念に思えてしまうが、単に善悪、良し悪しを判断する物差しでしかない。端的に言うなれば価値観である。そして、思考とそれに伴う感情の反芻、積み重ねが価値観の正体であって(ラカンルーマンの理論を使った複合的な解釈になるが)、要はそいつのしてきた複合的な経験による極めて単一的な解釈のそれでしかない。肝となるのは「思考とそれに伴う感情、そしてそれを引き起こすイベント」であるが、イベントがなければ価値観の形成の機会はなく、イベントについて思考するための知識がなければ整合性の取れた感情はアウトプットされない。「考えるの苦手なんだよね〜」と言った日には「なるほど、知識不足ゆえに自身の倫理感に対する自覚がないということですね」と取られてしまっても致し方がない。 また、アウトプットされた感情が都合の悪いもの(たとえば、自己破滅的な境遇の苦しさを受け入れ難い)であったとき、それを自らの思考の副産物(唯一自己のみによるよる所有物)であると認めることができなければ、それは価値観にはならず「脳の中をドロドロと垂れ流れる不快ななにか」としか認知できない。 「自分の考えを言語化するのが苦手なんだよね」と言った日には「なるほど、不都合な思考や感情には直視、対面ができないということですね」と述べたことと同義になってしまうかもしれない。 これらが悪いと言うことではなく、ただ倫理という名の刀の刀身を見誤り他人を、自分を傷つけることもあろうというだけのことである。個人的にはそういった部類の悩みに苦しむ人の支えになる言葉をかけ、扱うに足る倫理を自覚して欲しいと祈るのみである。それくらいしかしてあげられることはない。

 

食事に関する意欲がほとんどなく(甘いものは嬉しい)、そのくせ空腹には本当に敏感で、なんならかなり不快。 腹が空かなければ自炊をする気になんてならないし、腹が空くころには自炊をする気力はない。コンビニに飯を買いに行くのも億劫で、というか、そもそも外に出るという行為そのものがかなり苦手で、それなりのきっかけや理由がないと腰が上がらない。 少なくとも〇〇が食べたい!と思い立って外に出るようなことが起こらない。なので、食材を買いに行こうとも思えないし、コンビニに行こうとかも思えない。怠惰なのか、退廃がすぎているのか、どっちでもいいが正直生き辛い。


友達と話していて、俺は"いつも通り"への執着が強くて、かつ(社会一般と比較して)凝り固まっているのではないかという話になった。そいつと知り合ってそろそろ10年が経ちそうな気がするけど、なにも何年もびっしり関わっているわけでもなくなにかきっかけがあれば都度関わる程度で、互いに同じ時間の分だけ月日に流されている中で、たまたまその瞬間だけ交わっている。肝だなと思うのは同じ時間を(共有するでもなく)それぞれが過ごしているという点で、接点さえ発生すればいつまでも続く関係だと思えることである。"いつも通り〇〇している"のと同じくらい"いつも通り交わっていない"ということにも意識は向けるべきだなあと、通話を切ってふと考えた。


こうした方がいい、こう在ったほうがいいといった類の考え方は多々あり、それに首を絞められる感覚。こういった考えのパターンは物事を捉える際の志向性を高める一方で、極めて狭まった"正解と思えるものごと"への偏りを生む。社会との距離も、普段関わる人との距離も、自分の言動にも、排他的になれてしまうために限定的な価値空間に引きこもってしまうのが困りごとである。もうすこしオープンに、絶対性を取り除きつつも己の物差しとして機能するようにありたいものである。たとえば正義への信仰をモラルとしての解釈の粒度まで落とし込むように。


ここ数年、「許せない人のことが嫌い」というジレンマに囚われている


自分に寛容になれない程度には許容できないことが多く、自分の価値観で自分の首を絞め、その分だけ人との繋がりを断ってしまっている感覚がある。

 

人間不信

・高校時代の"悪ノリ"での裏切り

└自身が生徒会長として主催した制服変更選挙にて、仲の良かったグループからの組織票で企画の共倒れをされ、陽キャ的な悪ノリが苦手に ・精神疾患による社会に対する拒絶

└大学3年、パニック障害になったことによる価値観の変容(頑張らなくていい)が原因で社会との距離ができる

・交際相手からの否定

└別れ際、アイデンティティを主とした自己防衛のための主張(攻撃)を受け同界隈の人間全般が苦手に


とにかく自覚・対話・誠実を続けよう


環境の変化→慣れた 心地→有限性・相対性を強く感じるようになった(物事の評価がリアリズム準拠に近づいた?)

身体→体重は減らず、食生活は改善気味、ジムは程よく行けている

精神→いくつかの未解消事案につき焦燥は続く