宇田

そのとき考えていること

3月

労働運動では賃上げと共に余暇の要求を行われることがしばしばあったが、余暇を与えられたとしてそれを謳歌できる自信もない。
休日とて寝れるだけ寝て、しかし満たされず、何が不満なのかもわからず、しかし満たされていないということだけが確かに判る中で、次の勤務日を呪ってしまう。当然労働の最中は消耗戦であり、一刻も早く逃れたく、しかし避け難いものではあるが、もし逃れたとしてその先に何があるのかが今一つわからずじまいである。
曖昧に少しずつ苦しみながら、溺死に向かっているような感覚すらある。その場しのぎではなく、もっと本質的な安息を望むのはなんらおかしなことではないと思う。

4月

認知行動療法自律訓練法、今ふうに言うならマインドフルネスは今への気づきを促す一方、気付いた後のアクションについては言及しない。
理想や意欲という物差しを失ったきっかけが精神疾患だったとして、彼らにとっての自己認知は行為なき知恵であり、意志なき魂の表象である。主義思想の結果、何が起きるのか、何が起きると望ましいのであるからして、それを信仰するのかを認知することが初動として設けられるべきであって、もし主義思想がないのであれば“それ”がないという認知が初動となるべきである。
認知の歪みはどこから歪んだものであり、どこに矯正すべきなのか、ボトルネックはどこにあるのかを理解しない限り、認知行動療法よりはデパスを飲んで悪い予見を忘れるのを待つ方が賢明である。


5月

「なんとなく不調な日」、万人に設けられたペナルティなのだろうがおそらく自分はその頻度が人より多い。そもそもの機体、つまり身体のスペック(とくに免疫機能)が軟弱だから。
ADHDは先天的なものだが、自律神経の乱れは因果として前後どちらにくるのかは考えても答えが出ないがちである。
ADHDで身体が常にオーバーヒート気味、ゆえに自律神経が乱れるのか、自律神経の乱れが恒常的(先天的?)なものであるからして、ADHD的な不注意などが増えているのか。卵が先か鶏が先か性の議題ですらある気はしている。
社会人になって1年が経ちなんとなくの生活の程度はわかったものの、その程度が「なんとなく不調」がデフォルトであるとき、そいつのパフォーマンス、というか正気でいられる時間は祝福か?と錯覚するほどには珍しい。
ADHD治療の服薬がマストになりつつあると感じるが副作用のデカさは昨年痛感したし、かつ、「病気ではなく体質」という性質上死ぬまで付き合っていかなければいけない生理現象である。その「死ぬまで」の不快度を減らすための生理活動だと考えればまあやった方がいいだろうなと思いつつも踏ん切りがつかず、ジムに行きたいけど行けない日だとか、仕事が全く進まない日を日常的に見過ごしている。

6月

目的がなく義務だけが追って回る生活を余儀なくされるものがいる。俺もそのきらいがある。自由を得ると退屈が訪れる。退屈はたいそうな病である。退屈、つまり余暇に漬け込むのが消費経済であり、需要の押し付けが行われている。
労働は奴隷を起源とする説もある中、やはり自らそう感じてしまうし、驚くべきことにそこからしか自由を獲得できない。奴隷として勤しんだ結果得た自由を謳歌できず、奴隷どころか、人として過ごすことが面倒になっていく。
結局、そいつの目の前にある飯や菓子だとか、風呂や草木だとか、日常に顕在する要素をどう捉えるかでしか克服できない。認識の振れ幅こそが余暇の克服、つまり贅沢とすら言える。別に仕事だとか、性愛だとかに没頭することで贅沢たらしめることもメジャーではあるが俺はそういう節はあまりない。あった方が幸福であったやもしれん。
となると、今あるもののつまり一人の目で、耳で、口で感じ脳で捉えたものの情報を謳歌するほかない。
一人で生きる中での情報量には上限がある。人の声を、話を聞いたり、気配を感じたり、そういうものの意味での贅沢を行う上で、一人を辞めるというのは有効である。もちろん、互いにとって利的な要件であつ必要があるし、日々の消費カロリーも上がるであろうが、そういったものの志向性が合う人と暮らし、営みを労働から得た自由な生活の中で望んでいる気がする。