Log-0011
二つの社会復帰
社会に復帰せねばならんという時点で、なにかしらの障害が原因で社会から離脱せざるをえなかったということがわかる。世間一般で言う社会復帰は休職→復職、もしくは退職→再就職のようなものを指している気がする。いわば職場復帰、さらにいわば「労働を遂行しうる素体を有する」ことであろう。
さてもう一つの社会復帰は、社交性が大きな要素となる。離脱した人は、なんらかの苦しみに対し、アウトプットとしての価値観を形成する。心療内科に通って抗不安剤を服薬するでも、以前はストレスでしょうがなかった上司や同僚、友人から距離を置くなど、文字通り元にいた社会に対して距離を取り価値判断の再構築を狙う営みこそが離脱である。
ここで障害の寛解に至った人は、労働への社会復帰をし、元の暮らしに戻る。一方で、彼らにはもうひとつ「元の暮らし」が見えてしまう。社会との距離を取って作った価値観は、とうに社会一般常識とはかけ離れてしまっている。残念なことにこれに気づけるのは、死なないための価値観が不要になったとき=職場に復帰できたとき=寛解した時である。
いざ次のフェーズに駒を進めようとしても、たとえば社交を持ってコミュニティに属したり/会社の飲みに行ったり/交友関係を作ろうとしても、前と同じようには上手くことが!進んでくれないようにできている。なぜなら、彼が作った価値観は元いた社会(とその人員)を、加害性のある存在や不安の種として捉えてしまい、迎合することが(いつのまにか)できなくなってしまっているからだ。
Log-0012
当たり前のことであるが「ネガティブワーカー」(リスクを持って社会に出続けるもの-負けなければよい)である以上に、「ネガティブピープル」(リスクに伴う態度、習慣をもとに人格を構築した、社会との距離が全体的に遠いもの-勝つことで社会・人に迎合されうる)であり、この自覚は今の自分に必要である。
Log-0013
「どこまでいっても自分は自分なんだよな」というある種のポジティブな突き放しは自己の保守に有効でありうまく扱えている感覚はあるが、それはそうと自分という存在の頭打ちを感じることが多くなっているし、これから歳をとるたびに「自分はここまでできる(ここまでしかできない)」を痛感することが増えるだろうなと容易に想像できる。
Log-0014
他人との関わりにおいて、当人が悩んでいることに対してどう捉えているか、どう取り組もうとしているか、という観点が自分の価値基準では重要らしいことに気づく。
どう捉えるか=知性/どう取り組むか=倫理として考えることができそう。
このベクトルが近かった人に惹かれたとして、それは同族意識のようなものなのだろうか。
追記:
「心のつながり」を感じることが重要らしい。では、「気が合う」「信用する」の条件とは?
└心から承認する/承認される
Log-0015
もうちょっと自由に生きてみてもいいんだろうけど、勉強をしてるうちは絶対に答えに寄りかかることができる(「答えは出ない」という答えすら持てる)から信仰のような偏屈さが常にある__依存しているのかもしれない
Log-0016
絶対がありえないからこそ対話・内省・訂正が重要なのであって、その都度相対的にもっとも答えと思えるものを望み続けるべきである。
その点、絶対的な“無理”があり得ないと認めさえすれば、対話の可能性をもってすれば、わたしたちは相対的に、持続的に良く在り続けることができる(と、信じている)。
Log-0017
日本語で言う「嫉妬」は、実は英語ではenvyとjealousyに呼び分けられている。envyとは他人が持っているものをほしい時に生じる感情で、jealousyが自分が持っているものを取られる時に生じる感情のことを指す。
つまり、隣の芝生が青いのを羨むのはenvyで、旦那が泥棒猫にさらわれて許せないのがjealousyである。
Log-0018
「不幸になっても大丈夫だよ〜〜〜」ってなるまで人と親密になりたくない気さえするが、そんな日は死ぬまでこない気もしている
Log-0019
承認-許し-心のつながり-好意
承認-そういう在り方もあるではなく、そういう在り方が良いという許し?認め?
そういう在り方-自分のことを許さず、一方で苦しい現実にもがきながら良くあろうとする姿勢を承認してほしい、肯定してほしい?
Log-0020
自己否定をするのは他人からの否定を避けるため(?)
根本にあるのは認められたい、許されたいだけなのでは