宇田

そのとき考えていること

2320401

諦めが肝心とは本当に核心を得ていると思うし、自分自身学生時代からの持病やらの戦いに関しては諦めのおかげで救われた部分が多い。一方で企業は諦めを許さない。数字が必要であり、社員もまた定量的な資産であるからして当然の認識である。

諸々を諦めた要因はできないから/やると壊れる(壊れた)からであって、企業のそれとは完全に対比した構造にある。そして、我々は雇用されている。労働力ないし、そこにつながる行動や成果の対価として給料をもらう契約を結んでいる。「おれにはもうこれはやれねえや」と諦めたものをやらねばならん。この対立構造の中で圧迫され続ける自我を思うと胸が痛んでならない。

 

祖父の一周忌。

爺さんは遺恨や災いの一つも残さず綺麗に死ぬことに成功したし、そのおかげで父はなんとか我が家を、というか俺と弟に、枷や不自由を一切残さず育て切った。

良くも悪くも俺の世代は家系や相続の関係に影響されることがないよう設計されているらしい。その分我々の意志によって自由に手前等の人生をコントロールすることができる。一方、救われた側の俺の手元にあるのは、俺由来の障害であり、それは精神疾患や関連した不都合たちである。大絶賛対峙中ではあるが戦いは長いと見ている。寛解も完治も惜敗も、どれも与えられた選択である一方、背景を知るにそれは清々しいほどの遺された自由なのである。

自由な設計をするよう設計された以上、自分で解決するほかないし、それを実行することが文化的遺伝子の示す道筋である。ある意味、実行しない自由もあろうが、進んで不幸を求めることは現状ない。縛りのない人生を豊かに穏やかに健やかに過ごすこと、その余剰分の価値を他人に譲ること。それが自分の人生での最善の選択なのだろうと、この度一周忌を迎え知れたことさえも、祖父の計算だったとすると畏怖さえ感じるが、どう揺すっても死人に口はない。

 

善性と自分でいうとキツいが、ある種自分なりに倫理道徳を通した言動の結果、カウンターとしてガチの損益を被った経験があり、これが原因でコミュニケーションに恐怖や不安を感じている節がある。不安障害やパニック障害の類いが構築した価値観だとよくあるケースなのかもしれない。トラウマというやつだろうか。

「こいつ」は同じく善性で返してくれる奴!と確信できる状態であればまったく心地がいいが、それでなければ会話を起こす機会すら興せる自信がない。

知らんやつに声をかけることは容易だけど、返しの一言の様子からすでに博打であり、そいつの投げかけてくれる言葉が起こす状態が(任意の)不利益だと、はなからわかっていれば普通に縁を切ってしまうかもしれない。

 

切れない場合もある。職場とか。

大きな確率で不利益になりえる人間との会話、ないし繋がりというのは絶えずして恐怖である。どういった言動に対して恐怖とラベリングをするかは論点が病のアレコレにズレてしまうが、善性が通じない相手に善性を用いることは結構な無駄賃であり、言うなれば菓子折りを持って殴られるために出向く、くらいの奇天烈さすら覚える。

 

「コミュニケーションのチューニングが奇跡的に噛み合うやつ」=「隣人」以外は「みんな」の中に入れてやることはできず、善性の適応外になってしまう。自己中心的なご都合主義の妄言と言われてしまえばしょうがないが、これも精神疾患の凝り固まった思想形成の産物であろうか。

もしそいつらに無償の愛をばら撒いたとし、自分の価値観を殺してまでコミュニケーションをとっていることになる。

究極の話、そいつの善性の有無などは関係がなくて、加害性に理屈さえ通っていればそれでいい。真面目に傷つけてくれたなら、ちゃんと嫌って疎む理由ができるし。

そういう中途半端なラベルリングを保留した状態、つまり、曖昧に関わっているのが不快で、かといって縁切りなどの対策の取りようのない関係はどうすべきだろうか。

話を聞き、要求を飲まない?→仕事が進まない。それは困る。

雇用関係では結果のやり取りをするため、成果なしにはコミュニケーションが成立しない。耐え忍びながらもこちらの強度を上げていくほかないのだろうか。

あなたの口酸っぱさや、粘着質な言動が嫌いなわけではない。加害性を孕む雇用関係が嫌いなのである。君主国家でさえあれは立派な国王様だろうが、民主制を目視できない時点で近世にも至らぬ体質であり、果たして本当に彼らに現代の偶像ことITでビジネスをする素質があるだろうか。銃を持った猿というのも存外怖かったりするものだ。