宇田

そのとき考えていること

Var-2,024/1/4

 

〈2023-12-03-1〉
『哲学の先生と人生の話をしよう』/國分功一郎、別の著書を買った勢いで手元に置いたものの手付かずだったが良い(と感じられる)折に読了。
悪い搾取はしないように心がけるし、なので、良き関係のために良い搾取をされたい。

〈2023-12-03-2〉
ここ数年で”誠実さ“について沢山考えることができたけど、都度自分の正義感から生きづらさを感じてしまったのも事実である

〈2023-12-05〉
曖昧さ、抽象性、無責任みたいな“ちゃんとしていない”事物に悪い印象を抱くようになったのには割とハッキリとした恋愛経験による理由があって、それを許せないままに価値観が凝り固まったので社会と自分には距離があるのではと疑ってしまう。世間がどうとかではなく、あくまで自分と他者の、極めてプライベートで相互的に向き合う空間。向き合って他人を受け入れるのにかかる時間は、自分と社会との距離を表しているようにも感じられる。どうにかしたいと思うこの感情は生理的なものなのか、自分はこれを是としていいのか、良く搾取し良く搾取されることは本当に可能なのか、こればかりは考えてもなかなか答えが出ない。なぜなら当時の喪失を許せてはいないから。戒め続けて、それを咀嚼しきれずにいるからである。

〈2023-12-20〉
転職を経て無事内定。退職の引き継ぎでかなりバタバタしていたがこちらも無事終わり、退職。
今後の人生において、豊かさは確保されたと言ってよいだろう。一方で、自己評価のかぎりでは「転職がうまくいっただけのやつ」止まりであり、今の段階では金もなければ、健康でもなく、有休消化期間(長めの冬休み)だからと言って人と遊ぶことも旅行に行くこともない。できることなら毎日喫茶店に行って本を読んで過ごしたい。
最終出社の翌日、普段通り8時に目が覚めたときに「布団から出る理由がないな」と思い落胆した。ものすごく空虚な落胆だった。
布団に居続ける理由もないが、飯は食べねばならんし、外に出て歩くなりしなければ運動不足が加速する。が、無限(と感じてしまう)時間の中で、それを"わざわざ今この瞬間に選択する"という気にもなれず、苦し紛れに限りなく近い惰性で時間を垂れ流し、なにもないままに一日が終わっている。

〈2023-12-21〉
小難しいことをやいのやいの考えなくなったのは、学んだ学域の価値観や理論が自分の思想や生活において体系化されたからである。多分。
自分の場合は、豊か・健やか・穏やかに眼差しを向けた有限的な反芻、再現が体系の大まかな形であり、これは個人の持てる信仰として十分に機能しているように感じられる。
学問(特に文系的な理論)で弾き出される絶対的な教示は、人間の暮らしや人生において、指針たり得るものの、ゴールには向かない。絶対性を有限的に追うことが重要なのであって、無限的な闊歩はウィングスパンが∞mのやつにしかこなせはしない。上記はメイヤスーの『有限性の後で』から得た私なりの体系的な価値観であるが、"有限性の後"にあるのは、果てしない時間と限りあるエネルギーの耐久戦である。老い、憂い、苦しみといった日々のネガティブを受け入れ、また、その際の強度や選択肢を磨き上げ続けることで、日々を少しずつ臨む方向へ動かしていくほかない。

〈2023-12-22-1〉
自分で自分を生かすことができている(はず)。
他人に必要以上に依存することなく、一人の人間として自分は成立していると感じる。
けれど、一人もの同士の状態で、輪郭を重ねずに同じ境界にいれる感覚がした。それがすごく希望に感じた。

〈2023-12-22-2〉
この間見たアニメで「人生で大事なのは愛と約束と賞味期限」というセリフがあって妙に刺さった。
25の歳がなんらかの魔力に動かされているとしか考えられないけど、人生のタイミングという点で考えると、なるほど周りの人も自分もやはり節目の渦中にいる。節というのを高速のインターチェンジだと考えたとき、入り口は同じでも出口は東北だの北陸だの関西だのそれぞれ違ってくる。そうやって時間を経てだんだんと点々バラバラに距離を置いて、疎遠になる。疎遠のち合流とするのであれば、インターチェンジを潜る前に、次の目的地を互いに示し合わせておく必要がある。疎遠とてまた別の場所で別の暮らしがあるだろうが、あんなこともあったと過去のもので済ませるくらいならインターチェンジを潜る前に、今ここで道路を封鎖して冷凍保存した方がマシだと考えてしまう。

〈2023-12-23〉
主観が主観に留まらず、主観を経て普遍となる、そんなコミュニケーションが好き。互いの身の上話の中から見える共通項、深刻な悩みを聞く上で、客観的にはこう見えるのかな、似たようなことはあったかな、どう感じたかなと話を進める。すると相談者本人の人生や価値観や環境における課題点、その解決法、解決できないものの切り分けとその理由などが見えてくる。これは他者理解と同時に他者のボトルネックを特定し、前進することに寄与する。もちろん、当人が前進することを望んでいればだが。

〈2023-12-23〉
『社会システム理論』ニクラス・ルーマンを読んで
子としてのゲマインシャフト(血縁-地縁-信頼的社会)は必然事項。一方で親としてのゲマインシャフトはオプショナルな世の中。とりわけコロナ禍に入って人との距離が離れ、コミュニケーション量の総和も減ったことだろうし、自分自身断絶を感じた。とはいえ、時代によっては死なぬに育ち切るのが難しい時代だってあるだろうし、現代においてもお見合いはゲゼルシャフト(政治-利害-機能的関係)然としたイベントからゲマインシャフトを志すものだろうし。心的システムにおける意識→記憶→忘却の循環のベクトル(何を思うか/何を良しとするか)は人それぞれ、ゆえに社会的システムがいくらコミュニケーションが次のコミュニケーションを作る、その果てが文化であったりするの自己準拠的な生産だと言われても、コミュニケーションをした"こいつ"と"そいつ"の関係について目を逸らすわけにもいかないし、なんなら一番言語化したい分野だ。もうちょっと考察が必要になりそう。

〈2023-12-24〉
ルーマンを読んで-解釈メモ
『マルチオブジェクト・オートポイエーシス・システムを制御するメタ・オートポイエーシス・システム』

〈社会・システム・精神・身体〉
【構築演繹システム】
-閉鎖的な個別要素の営み-
コミュニケーション・入力・思考・食事

- 『複雑性の拡大』≒システム不全-
非秩序・エラー/バグ・価値観・栄養欠乏

-(再)構築-
創発規範/秩序・保守改修・価値形成・合成

『複雑性の縮減』

⇅ (動的な平衡志向=メタ・オートポイエーシス・システム)

【回帰帰納システム】
-閉鎖的な個別要素の営み-
コミュニケーション・ユーザ運用・思考・食事

-『複雑性の縮減』≒健康なシステム-
秩序・プログラム・価値観・消化器官

-自己回帰的運用保持-
社会的行為・処理・意思決定・排出

自己回帰(オブジェクト・オートポイエーシス・システム)による『複雑性の縮減維持』

〈2023-12-25〉
「付き合う」という性愛的な相互関係は、儚い有限性を前提としたようなもので、その一過性に身を任せた無責任な衝動行為な気がしてどうも腑に落ちない。欲求的でなく、無限的な事物など存在しないというのは承知の上で、あくまでも精神性、どういった心持ちでいるかの話である。
「生涯共に過ごす人がいるとしたらあなたがいい」という表現が自分の心情を表すにはもっともストレートなもので、かといってこれはあくまでも私の言語、つまり、価値観や志向性の話であって、伝えられる人にとって同義で扱われるかというと全くその限りではない。そういう点では、もし後者の"告白"をしたとしても、これは世間一般でいう付き合うと同義のように見えますがそういう意味合いではなく_____、と認識の共有が為されなければ(説明が行われなければ-理解が行わなければ)、自分勝手な、暴力的なコミュニケーションに他ならない。"赤いもの"を見て"赤い"と表現するとき、同時に色盲の人は"赤と呼ばれるであろうもの"といった粒度でしか認識できない。ズレがある。とはいえ、人一人取り上げても、認識や価値判断は悉く少しずつズレていて、曰く元々特別なオンリーワンであり、しかしその共通項が常識であったり、世論、らしさ、という一億総動員で取りかかる相互的な一般化によってコモンセンスとされる。
コモンセンスではなく、もっとパーソナライズドな、わたしにとっての、これの、彼の、あなたの認識はこういうものです。と、伝達-理解が為されるためにはやはり"赤"が"赤"になったようにわたしも二者間での認識システムを構築する必要があり、これもやはり不断のコミュニケーションによってのみ成立する。その上での(道徳的、倫理的、価値感的)是非判断は、残念ながらわたし、つまり送り手にはどうすることもできず、できるだけ価値観や道徳倫理が近いものを持っているものだと信じて祈るしかない。

〈2023-12-30〉
『ゼロから始めるジャック・ラカン』読了。精神分析学の金字塔としてだけではなく、現代哲学への影響を鑑みても知るに損のない学者であるラカン。良き折に触れることができてよかった。理論の中身には触れないけど、人のことを考えるとき、自らを省みるときの指針を得たような気がする。人が考えるということ、あるいは考えないということ、それらを踏まえて自我だということを、理論立てて知ることで心療の本分ともいえる(意識・無意識を問わない)悩みの掘り起こしを知ることができた。先日考えていた「構築演繹システム」的に内包するところの、価値形成のメカニズムを非常に精緻に解き絆しているように感じた。事象-感情-無意識-思考-価値(システム)化といった、人と社会的イベントとの関連を明らかにするということは、不本意に膨れ上がった思考や価値観のボトルネックを認知できるようになるということであり、その解消とまではいかずとも認知そのものに非常に大きな価値がある、と思う。自分の機嫌を自分を取るように自分の棘を、他人の棘を取り除けたら嬉しい。

〈2024-01-03-1〉
地元に帰省。令和6年能登半島地震にて被災。
一人であの揺れを感じることがなくてよかった。あの揺れが恐ろしいものであった、と家族と認識の共有ができてよかった。
東京に戻る。一人の尺度で楽しいことも苦しいことも体感していく。それがわたしだけのものであるということが、必然的にわかった瞬間であった。

〈2024-01-03-2〉
人は突然死ぬし、大災害は突然起きるし、でも、続ける以上は途方もなく地道。


<2024-01-04-1>

東京行きの北陸新幹線内で『推し燃ゆ』読了。推すという行為の言語化がここまで精緻にされているのは同年代の作家ならではのことかもしれない。話自体は「発達障害持ちオタクの日々」といった印象。既視感があるなあと思い続けたがやはり主人公は自分にちょっと似ている。推しは推せる時に推すのではなく、より健全に推せる余裕を作ることが大事。

Master{2,023/07~10}

7月(1)

ここ1年ほどは服薬である程度コントロールできていたのだが、勤務時間内に目眩だの吐き気がきてしまい思わずダウン。退勤即気絶みたいなことは滅多にしないはずが今日ばかりは目が覚めると22時で、おまけに前後の記憶も曖昧で、相当きていたようである。
そもそも春夏は気候に連動して、体感温度が相対的に上がり続ける。「ちょい暑い」が続くことが交感神経と相性最悪なのは生まれてからずっとそのはずだが、社会人にもなると動けない時間に産まれる損失もあるためこれは考えものである。

 

7月(2)

抑圧に対する批判リスクのある(疾患や欠点を持った)人間が社会に出て、管理され生産を行うことに社会がどれだけ寛容であるかはさておき、目の前のボスは前者であり「じゃあ働けませんよね」と言うか「よかった、働けるようになりましたね」という0or100でしか判断しない。1on1では直近2週間のコンディションを説明するターンがあり、私はあくまで主観的にリスクがあるか否かを考慮してボスに告げる。「やれている」の基準が異なることは確か。「今の状況よりさらにやれる」「今の状況で過不足なくやれている」「今の状況ではやれない」の基準で告げていたが、そうでは困ると告げられる。「戦えそうにないのであれば、休職するか、辞めるか、お医者さんに相談して戦えるようにしてくださいとのこと」。自分の身体も人生も会社のためにあるわけではない。

 

7月(3)

ハンチバック読了
テーマもロジックも全てが面白くてすごく惹かれた。
芥川賞作品を読むようになったのは最近のことだけど、これから毎年読みたいし既に楽しみ。

以下ロジック解読のためのメモ
モナリザ/赤いスプレー 
イスラエル/ゴグ 
・釈迦/田中 
・釈迦を存在させるための嬢の筆(書かずにはいられない)
・攻撃される価値のある障害者 
・不当な配慮、

 

7月(4)

ネガティブワーカー(リスクを持って社会に出ざるをえない者)への理解が足りないのか、本当にそういった類の人間は社会に出る(その会社/その部署にいる)べきではないのか、どちらかを知るにはボスに訴えの姿勢を見せる必要がある。コンディションの全てをありのままに伝えるようにと言われても、薬を飲めばなんとかやっていけるか否かでしか語れない。根本的に会話が噛み合っていない。新卒で配属された部署は特に興味もなく、2年ほどしたら異動をしたいなあと考え続けている。上長はマネジメントを詰める・怒ることでしか行えず、私の進捗未達はの大体は持病によるもの(ハードに残業ができない)である。よって、上長は私の持病を攻め→いつまでに治すかを問い→私は答えられず→次回までに考えておいてくださいと言われたところで→次回も同じ問答を繰り返す。
ここで重要になってくるのが「上長のマネジメント能力の是非」と「私の勤務能力の是非」になる。私が上長に耐えかねモラハラだ!と訴えたところで、私の負け=勤務能力の欠如と結論が出れば更迭、休職など、ネガティブな方向にことが運ばれてしまう。訴えるなら私が勝つ=「勤務能力に問題はなくマネジメント都合による過失、ゆえに異なる場所でなら輝ける」ことが必達であり。訴えないのであれば異動できるまでの耐えが重要になる。
ということを先輩に相談すると、「もっと反抗したら良いじゃん」と助言され、それはまあ確かにそう、一方で進捗未達の人間の反抗もいかがなものか...と悩んでしまう。とはいえ、現状のままの耐えはやけにしんどく、かつ上長の態度変容も望めない。非常に悩ましいなと考えながらも、目の前の課題だけは真面目にしっかりと取り組めている。1ヶ月ほど自律神経失調が続きキャパシティの低下していることを上長に報告したところ、「2週間前の面談では言ってなかったじゃないですか」とお叱りを受ける。曰く、マネジメントの観点からして「できないやつにできないことをやらせていた上長になってしまうではないか!」とのこと。服薬量が減っていることは報告していたし、向こうからの視点では健やかな社会人として扱っていいと見えていたらしく致し方ない。もっと細かい粒度で報告するようにとのこと。
無理がある。社会人になった時から持病持ちだし、持病を持って社会に出ることを自認している。上長の管理観は真っ当であることは前提として、実際問題、流動的にその日その日のコンディションが大きく変わるのと同じように自律神経も動いてしまう(例えば風邪を引いた日、ちょっと身体が重い日とか)。 1アクションによるダメージリスクが他人より大きく、かつヒットポイントが大きいのが精神疾患患者の特徴(どの病気も等しく同じだろうが)であり、ましてや社会人というストレス環境下ではその日の業務の所感、他人から受けた言動によってバッド入り(服薬増加)するなんてことも不本意ながら日常茶飯事である。そのリスクを承知の上、それでも社会人をやりたいとして雇用関係を結ばせてもらっている。もし、上長の言うところのリスク管理の考えが正となるのであれば、リスクゼロになりえない私はそもそも社会人にはなれない。一方で、「リスクのない人間などいないのであって、その流動性を以てしてマネジメントを行うのが管理社会ではないのか!」と言いたくなってしまう。いっそのこと、持病持ちはなにかとやられやすいので勤労能力はありません、と断言してくれた方がいくらか幸せだろうが(その分社会福祉が出なけりゃ納得はできないが)、そうではないから社会にいる。

定点的なリスク観測がしたいのであれば厚生省と相談でもしてきてくれ、と言いたいところだが私の口で何がマスタの意見であるかの現地を取り、組織一貫して認識の統一を図る。その上でのマネジメント、労働状況の定点観測を行うべきだと強く痛感する。体調を崩すのは決まって夕方で、発熱も発作も、なんらかの体調不良は大体夕飯時、もしくはその少し前に起きてしまう。日が暮れるにつれて交感神経が昂るためである。脳がどんどん熱を帯びていくのをしっかりと感じる。

 

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8月(1)

バルトの『喪の日記』を読む。精神分析で言うところの暴露の手法に感じ取れるし、彼の感じる喪は「去勢」と呼ばれるものであろうと感じる。この日記の連なりもいつか、暴露となり、無意識へのアプローチとなっていれば喜ばしいこと。

 

8月(2)

勤務中にパニック発作。後日、退職勧告。

 

8月(3)

機会の喪失。怒っている。

 

8月(4)

「人生は2年に1度壊れる」というのが私信であるが、今回も例外なくちゃんと壊れたあたり、私信としての機能を果たしすぎている。果たさなくてよい。全部自分が悪い。これが妥当だというのは腹落ちしているし今更レジスタンスに訴えるなんてことはないが、「これが妥当だった」ということが哀しくて仕方がない。

 

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9月(1)

リハビリがてら人生初の転職活動で、2年ぶりに渋谷に着た。
我の強い人、街が苦手だなと感じる。
誇張したアイデンティティの露出は最悪吐き気を催す。

 

9月(2)

発作で倒れたが、管理職に問われたのは修業能力の有無ではなく、解消方法の実現性であった。血を流した患者に安静を提言するのではなく、「自らをして止血をせしめよ!」と提言する姿勢に脳が揺らされるが、整備工場においてパーツを取り替え、前線へ向かう機体に痛みや苦しみがないように、私にもそれはないものとされるらしかった。精神疾患患者になってはや3年、肉体と精神のどちらが先立つかを結論つけることもなく、不調な身体に応じるように行動が消極的に変容し、思考にまで影響をしっかりと出していると感じる。かつて何を私信とし、何を基準として生きてきたかを知るには時間が経ちすぎているし、その間に社会人になっていたりと、環境も変わりすぎた。ゆえに今自分がどこにいるのかわからないような、帆を張れない船になったような気分である。
帆を(張りたいのに)張れないと感じている以上、どこかに進もうとしていることは察するものの、どこへ、どうやって、なんにために、という感覚を取り戻すことに困難さを感じているし、漂流が長引くほどに食料や燃料はすり減っていく。誰かに知られることもなく沈没し、その間の苦痛から出る叫び声や悲痛な感情というのは、思わず目を背けたくなってしまうものである。

おそらく、他人の成果物や思想を間借りしないこと、つまり自分のものとして、所有の範囲内で扱うことが重要だと思う。オートポイエーシスで言えば、たとえば、飲食の反作用が排泄であるように、事象の発生は作用と反作用の不断な反復によってのみ成立することを自分の経験として咀嚼すること神学的Xについては、その無限的で動的な反復は不断な有限性の積み重ねであることを自分の経験として咀嚼することこれらが己にとって私信たりえる尺度で信じる(理解する)ことで、ようやく帆が張られ、ということは風を受けてどこぞやに向かい始めることができるはずである。
上記が「どのように」であるとするなら、「どこに」は私欲の向かう方向だろう。ともすれば、これを自認することが一番難解かもしれない。そこでは、欲するに至った経緯と理由の自認が求められ、生物学的根拠や文化学的影響、そして個人史的な内省を要するからである。何が原因で何を欲しており、どのような反作用を期待するかを明示し、その指向性を以てして私信たる志向性を共存させることが望まれる。

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10月(1)

本格的に転職活動を開始。

 

10月(2)

内定はまだ出ていない。やるべきことをやっていくだけ。

 

3月

労働運動では賃上げと共に余暇の要求を行われることがしばしばあったが、余暇を与えられたとしてそれを謳歌できる自信もない。
休日とて寝れるだけ寝て、しかし満たされず、何が不満なのかもわからず、しかし満たされていないということだけが確かに判る中で、次の勤務日を呪ってしまう。当然労働の最中は消耗戦であり、一刻も早く逃れたく、しかし避け難いものではあるが、もし逃れたとしてその先に何があるのかが今一つわからずじまいである。
曖昧に少しずつ苦しみながら、溺死に向かっているような感覚すらある。その場しのぎではなく、もっと本質的な安息を望むのはなんらおかしなことではないと思う。

4月

認知行動療法自律訓練法、今ふうに言うならマインドフルネスは今への気づきを促す一方、気付いた後のアクションについては言及しない。
理想や意欲という物差しを失ったきっかけが精神疾患だったとして、彼らにとっての自己認知は行為なき知恵であり、意志なき魂の表象である。主義思想の結果、何が起きるのか、何が起きると望ましいのであるからして、それを信仰するのかを認知することが初動として設けられるべきであって、もし主義思想がないのであれば“それ”がないという認知が初動となるべきである。
認知の歪みはどこから歪んだものであり、どこに矯正すべきなのか、ボトルネックはどこにあるのかを理解しない限り、認知行動療法よりはデパスを飲んで悪い予見を忘れるのを待つ方が賢明である。


5月

「なんとなく不調な日」、万人に設けられたペナルティなのだろうがおそらく自分はその頻度が人より多い。そもそもの機体、つまり身体のスペック(とくに免疫機能)が軟弱だから。
ADHDは先天的なものだが、自律神経の乱れは因果として前後どちらにくるのかは考えても答えが出ないがちである。
ADHDで身体が常にオーバーヒート気味、ゆえに自律神経が乱れるのか、自律神経の乱れが恒常的(先天的?)なものであるからして、ADHD的な不注意などが増えているのか。卵が先か鶏が先か性の議題ですらある気はしている。
社会人になって1年が経ちなんとなくの生活の程度はわかったものの、その程度が「なんとなく不調」がデフォルトであるとき、そいつのパフォーマンス、というか正気でいられる時間は祝福か?と錯覚するほどには珍しい。
ADHD治療の服薬がマストになりつつあると感じるが副作用のデカさは昨年痛感したし、かつ、「病気ではなく体質」という性質上死ぬまで付き合っていかなければいけない生理現象である。その「死ぬまで」の不快度を減らすための生理活動だと考えればまあやった方がいいだろうなと思いつつも踏ん切りがつかず、ジムに行きたいけど行けない日だとか、仕事が全く進まない日を日常的に見過ごしている。

6月

目的がなく義務だけが追って回る生活を余儀なくされるものがいる。俺もそのきらいがある。自由を得ると退屈が訪れる。退屈はたいそうな病である。退屈、つまり余暇に漬け込むのが消費経済であり、需要の押し付けが行われている。
労働は奴隷を起源とする説もある中、やはり自らそう感じてしまうし、驚くべきことにそこからしか自由を獲得できない。奴隷として勤しんだ結果得た自由を謳歌できず、奴隷どころか、人として過ごすことが面倒になっていく。
結局、そいつの目の前にある飯や菓子だとか、風呂や草木だとか、日常に顕在する要素をどう捉えるかでしか克服できない。認識の振れ幅こそが余暇の克服、つまり贅沢とすら言える。別に仕事だとか、性愛だとかに没頭することで贅沢たらしめることもメジャーではあるが俺はそういう節はあまりない。あった方が幸福であったやもしれん。
となると、今あるもののつまり一人の目で、耳で、口で感じ脳で捉えたものの情報を謳歌するほかない。
一人で生きる中での情報量には上限がある。人の声を、話を聞いたり、気配を感じたり、そういうものの意味での贅沢を行う上で、一人を辞めるというのは有効である。もちろん、互いにとって利的な要件であつ必要があるし、日々の消費カロリーも上がるであろうが、そういったものの志向性が合う人と暮らし、営みを労働から得た自由な生活の中で望んでいる気がする。

2320401

諦めが肝心とは本当に核心を得ていると思うし、自分自身学生時代からの持病やらの戦いに関しては諦めのおかげで救われた部分が多い。一方で企業は諦めを許さない。数字が必要であり、社員もまた定量的な資産であるからして当然の認識である。

諸々を諦めた要因はできないから/やると壊れる(壊れた)からであって、企業のそれとは完全に対比した構造にある。そして、我々は雇用されている。労働力ないし、そこにつながる行動や成果の対価として給料をもらう契約を結んでいる。「おれにはもうこれはやれねえや」と諦めたものをやらねばならん。この対立構造の中で圧迫され続ける自我を思うと胸が痛んでならない。

 

祖父の一周忌。

爺さんは遺恨や災いの一つも残さず綺麗に死ぬことに成功したし、そのおかげで父はなんとか我が家を、というか俺と弟に、枷や不自由を一切残さず育て切った。

良くも悪くも俺の世代は家系や相続の関係に影響されることがないよう設計されているらしい。その分我々の意志によって自由に手前等の人生をコントロールすることができる。一方、救われた側の俺の手元にあるのは、俺由来の障害であり、それは精神疾患や関連した不都合たちである。大絶賛対峙中ではあるが戦いは長いと見ている。寛解も完治も惜敗も、どれも与えられた選択である一方、背景を知るにそれは清々しいほどの遺された自由なのである。

自由な設計をするよう設計された以上、自分で解決するほかないし、それを実行することが文化的遺伝子の示す道筋である。ある意味、実行しない自由もあろうが、進んで不幸を求めることは現状ない。縛りのない人生を豊かに穏やかに健やかに過ごすこと、その余剰分の価値を他人に譲ること。それが自分の人生での最善の選択なのだろうと、この度一周忌を迎え知れたことさえも、祖父の計算だったとすると畏怖さえ感じるが、どう揺すっても死人に口はない。

 

善性と自分でいうとキツいが、ある種自分なりに倫理道徳を通した言動の結果、カウンターとしてガチの損益を被った経験があり、これが原因でコミュニケーションに恐怖や不安を感じている節がある。不安障害やパニック障害の類いが構築した価値観だとよくあるケースなのかもしれない。トラウマというやつだろうか。

「こいつ」は同じく善性で返してくれる奴!と確信できる状態であればまったく心地がいいが、それでなければ会話を起こす機会すら興せる自信がない。

知らんやつに声をかけることは容易だけど、返しの一言の様子からすでに博打であり、そいつの投げかけてくれる言葉が起こす状態が(任意の)不利益だと、はなからわかっていれば普通に縁を切ってしまうかもしれない。

 

切れない場合もある。職場とか。

大きな確率で不利益になりえる人間との会話、ないし繋がりというのは絶えずして恐怖である。どういった言動に対して恐怖とラベリングをするかは論点が病のアレコレにズレてしまうが、善性が通じない相手に善性を用いることは結構な無駄賃であり、言うなれば菓子折りを持って殴られるために出向く、くらいの奇天烈さすら覚える。

 

「コミュニケーションのチューニングが奇跡的に噛み合うやつ」=「隣人」以外は「みんな」の中に入れてやることはできず、善性の適応外になってしまう。自己中心的なご都合主義の妄言と言われてしまえばしょうがないが、これも精神疾患の凝り固まった思想形成の産物であろうか。

もしそいつらに無償の愛をばら撒いたとし、自分の価値観を殺してまでコミュニケーションをとっていることになる。

究極の話、そいつの善性の有無などは関係がなくて、加害性に理屈さえ通っていればそれでいい。真面目に傷つけてくれたなら、ちゃんと嫌って疎む理由ができるし。

そういう中途半端なラベルリングを保留した状態、つまり、曖昧に関わっているのが不快で、かといって縁切りなどの対策の取りようのない関係はどうすべきだろうか。

話を聞き、要求を飲まない?→仕事が進まない。それは困る。

雇用関係では結果のやり取りをするため、成果なしにはコミュニケーションが成立しない。耐え忍びながらもこちらの強度を上げていくほかないのだろうか。

あなたの口酸っぱさや、粘着質な言動が嫌いなわけではない。加害性を孕む雇用関係が嫌いなのである。君主国家でさえあれは立派な国王様だろうが、民主制を目視できない時点で近世にも至らぬ体質であり、果たして本当に彼らに現代の偶像ことITでビジネスをする素質があるだろうか。銃を持った猿というのも存外怖かったりするものだ。

220425

220425

 

爺さんが死んだ。
遺品で立派な財布をもらった。
まだ身の丈に合わない。

 

社会人になった。
面倒だけど案外やれている。
ジャケットを羽織ってみるけど、八重洲の街からはまだ浮いている気がする。

 

ADHDの治療を始めた。
日に日に脳の熱が抑えられていく感覚がある。

毎日見える景色が変わっていく。
明日天地がひっくり返ったとしても疑えない。

あまりに解像度が高い。
普通の人が見ている世界が"これ"なのかわからない。
死角にこんな景色があったと思うだけで恐ろしい。

今までの自分が作り上げた自我が日に日に組み変わる。
治療の先に穏やかさがあると嬉しい。

 

わからなくなったものが増えた。
そのうちにわかるようになることだけがわかる。
わかるようになることがわかる自分が明日いるかはわからない。

 

爺さんの死はまだ悲しい。
仕事おもろい。
副作用苦しい。
お金入ってきて嬉しい。
明日の自分に不信感ある。
違国日記9巻面白かった。

尽くして祈るしかない。

220325

220325


 買い被られることが多くて困惑する。曰く、土台造り?プラットフォーム造り?みたいなことに長けているらしい。「お前が考える事業なら???万出せる」と言われた。おれを事業家にでもさせるつもりなのか。仮に事業を作ったとして、それを自分のものにしたいという欲は全くないし、なんならアイデアだけ提供してあとは好きにしてもらったほうが気が楽だとは思う。もっというなら、アイデアの是非についてワイワイ論じ合うことそのものにしか価値は感じない。しかも、おれは骨組みが得意なだけであって建築法を守れるほど生真面目な人間ではない。
 しかし、共生の可能態を広げて、共生の質を最大化したいみたいなところは確かにある。煙草を一本譲り合える相手が増えたら嬉しい、珈琲をしばきながらいろんな話をしたい、他でもないあなたともっと仲良くなりたい、誰のことなんだろう。
 共生の範囲は「心地よさの共有可能な幅」を指していて、自分にとっては「理解に対する努力を怠らず、どうしようもなさを愛せること」かもしれない。言ってしまえば、心地よさを共有できない人とは関係を好んで構築しないかもしれない。1年後には考えが変わっているかもしれないけど、多分死ぬまで考えて模索し続けるので問題ない。
 


追記


 赤羽はオイカワコーヒーにお邪魔した。白髪を束ねた無骨なおじさんが迎え入れてくれた。声は風貌の割に高い。というか若さを感じさせる勢いがある。マンデリンの豆を買ったので、ついでにおじさんにもマンデリンでドリップを一杯いただいた。どうせあとで家で淹れるなら、プロの技術で同じものを飲んでみたいと思った。美味かった。どうやらおれは苦味と雑味の区別ができていなかったらしい。どうりで「珈琲味の原油」と言われるわけである。おじさんは苦笑いもせずに理由と改善策を教えてくれた。
 おすすめの豆やら淹れ方を伺いながらドリップコーヒーをしばいていると、珈琲の経済圏と文化の話やら、味覚と絶対性の話になった。こういう話ができるおじさんが一番信頼できる。
 ゲイシャという豆の希少価値がかなり高いらしく、どうやらカシミヤみたいな扱いを受けているらしい。希少価値と美味しさに因果はないと断りを入れた上で、なんとサービスで一杯奢ってもらった。「こんなにレアな豆なのに、うまく淹れる人もいない。これがホントのゲイシャだ。」みたいなことを仰っていたが、マジでホンモノだった。「これが珈琲なんですか!?」と言うとニチャニチャ顔で喜んでまた語り始めた。こっちまで嬉しい。味に対する解像度を高めてくれたのは他でもないおじさんのオタク語りである。豆を買いに行ったというよりは知識と体験を売ってもらった感覚の方が強い。ありがとう。
 なんとなく「一緒に最高をやろうや」的な姿勢に心打たれるタチっぽいことを自覚した。2018年秋のLOUNGE NEOで開かれた「家だけにyeah」の地下一階、in the blue shirtのライブもそうだった。ふとバーカンついでに立ち寄ったフロアで、知らないはずの音楽を聴きながら、あり得ないくらい興奮した記憶がある。見ず知らずの誰かを個人の知的好奇心の文脈に巻き込んで、ついでにそいつにとっての至極の瞬間になる。神業かもしれない。

 一緒に頭振ろうや!みたいなものの楽しさは自分にとっては他は変え難い。土台を作るのがうまいのではなく、自分が楽しい空間を人に共有する技術みたいなものは確かに存在するな、と思う。もし友人による自分の評価がその類のものを指しているのであれば、おれもそれをやってみたいかもしれない。

220310

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 去年の今頃は「今よりしんどい経験はもうないやろガハハ」などと調子に乗っていたが、ゆうに超えてくるあたり時間の経過を感じる。1年あれば人間なんて全くの別人になれてしまう。良くも悪くも。「人って変わるからね」と言った友人の言葉をしみじみと噛み締められるのはそれなりに快方に向かっているからかもしれない。


 いざ退職したものの、特にすることがないという状況に不満あり。思っていた以上に人は規範に生かされている。実家暮らしで学校に通っていた時なんてモロにその恩恵を預かっていたのだなと感じる。いつ寝たとて、何をしたとて、注意もなければ賞賛もない。寝起きの珈琲とか、食後の散歩とか、週一で観るアニメとか、そういった習わしみたいなものを自分自身で生成するしかない。自分に関しても、社会を見渡しても、自己準拠を見直すタームに入っている感覚がある。数ヶ月ぶりに絵を描いたら脳が金色に輝いた気がする。適度にやっていきたい。

 

 就職準備のあれこれで髭を剃ったり、ワクチンの予約でカレンダーを見るとふと就職まで1ヶ月を切っていることに気づかされる。退職の段階で1ヶ月は切っていたのだけど。そういう意味では生活に自分以外なし、あるもないも自分次第、という時間を過ごせるのは案外貴重なのかもしれない。療養しなければと、有意義に過ごさなければと、杞憂するたびに締まっていくのは自分の首な訳である。べき的な考えはほっとけば社会から自ずと歩み寄ってくるのだから、自分への枷はそれなりでもいいのかもしれない。善くあることは望ましいことだが、善くあるべきと思い詰めたところでそれは叶わない。かも