宇田

そのとき考えていること

220307

220202


 わざわざコンテンツとして垂れ流すようなものではないな、と日記を更新せずに暮らしていた。のらりくらりと時間が過ぎていて、それなりの人生イベントに顔を覗かせるだけだった。書き起こそうと、そうでなかろうと、無情でかつ、平等に。
 なんとは言わんが、必要以上に接続しても、社会現象だったり、他人の感情だったりに煽られるだけで、しんどくなってしまうだけな気がする。知る必要もないものを知りすぎる必要はない、多分。望遠鏡は覗ける時に覗けるくらいがちょうどいい。
 一方で、飽和を避けるため、と言って一切を遮断するのもまた盲目的。孤独は最大の友だが、他にも友達はそれなりにいた方がいい。ましてや逃げのための接続、遮断は不健康だし、自我に対しての不誠実さの表れだと感じてしまう。「そんなのでは自分の畑を耕せるはずがない!」とおもわず声を上げたくなってしまう。
 できるのであれば、手を伸ばせる範囲の人、もの、ことに慈善的であり、手を伸ばしたい場所、手を伸ばさなければいけないものに対しても目を背らさずにいられたら幸せだろうし、ある意味での開かれた自由だと思う。
 5年通った大学の卒業、2年働いた会社の退職、1年籠った山からの脱出。
春やね〜〜〜と呑気にいえる側面には、そういった「ちゃんとやんねん」性な姿勢を用意していたい。
 春が来る。文字に起こそうと、そうでなかろうと、春が来る。

 


220307


 自覚的であることの重要性を突きつけられる昨今。ネガティブをネガティブだと認め続けるには、明確な内省が必要になる。長い目で見れば史学も内省の類なのかもしれない。歴史は繰り返すというものの、記録せねば繰り返したという事実すら知ることはない。
 個人の範囲としても、良しも悪しも自覚的でなければその時々の欲や不調、外的要因からの煽りをモロに喰らってしまう。不安障害が寛解したタイミングでADHDが重症化したこともあり、とりわけ自分ないし自分の周りで起こっていることを習慣的に把握しておく必要があると強く感じる。これ以上の散財を避けるために金銭の管理をちゃんとしたいな。どこを踏み抜いても地底まで墜ちていきそうな生活に、自覚的であるのが来年度の目標かもしれない。奇しくも世界情勢もそれが課題のようだが。
 動画編集の仕事をやめて、大学を卒業して、引っ越して、また生活が始まる。生活環境も人間関係も大きく変わる。俺という人間はストレスに極端に弱く、手綱一手の誤りで不安障害なり、ADHDなり、はたまた別の病気なのか、その類のものが暴発してしまう。23年生きてきて、もはやそういうものだと受け入れるタームに入っているし、年々そこから受ける不利益は拡大している。したがって、ちょっとした負荷を常に課し、かつそれに自覚的であり、もはや頼りない理性を少しでもうまく活かしてやれねばならない。

 便利なものにはすぐに甘えてしまうし、余裕があればすぐに調子に乗る。選択肢を自分から狭めて、不自由さを自覚的に習慣づけることが必要な一年になりそうである。Don't reach usefullness.みたいな感覚を大事にして暮らしていくぞ。